戦前、実業補修学校と青年訓練所を統合し、職業や実際生活に必要な知識技能を修得するための勤労青年教育機関として青年学校が設立された。
日本航空機の敷地内には青年学校があった。はじめ「私立航空機材青年学校」といい、工場の名称変更で「私立航空機足立青年学校」といった。戦争末期には非常体制が深まり、教育機関としての機能はほとんど失われ、青年学校生の多くは軍需物資生産関係工場などに動員されていった。日本航空機の青年学校は、工場が経営して即労働力とする機関であった。民設ではあったが、軍需産業であったために国から優遇されていた。