四五(昭和二〇)年八月、終戦となり、軍需産業は一大転機を迎えた。GHQにより平和産業に切り替えられ、日本航空機も賠償施設として翌九月に解体、同時に青年学校も終了した。南側の土地も手放し、敷地は府県道二〇二号の北側のみとなったが、それまでの技術を活かして自転車産業を行う「日本金属工業」として再出発した。
工場解体後、技能を活かして周辺で鋳物工場を開業した従業員もいた。国井さんもその一人であり、中央本町の工場にもこうした例はあると思われる。
工場はその後、内外自転車(株)と名称変更し、五〇(昭和二五)年にニチベイ商店(株)に買収され、「ニチベイフジ自転車」となった。この自転車工場のことを記憶している人は多い。
五四(昭和二九)年、ニチベイフジ自転車は倒産した。跡地は都が買収し、都営東島根第一・第二アパート(現中央本町五丁目アパート)が建てられた。
中央本町の工場寸描
(ネクスタ・ラッピィ・千住鉄工所・富士段ボール・中央本町三丁目町会提供)