現在、市街地化が進んだ西新井栄町も、昔は、農業が主要な産業の地域であった。満願寺ズシに所属し、この地に古くから住んでいる牛込源晃さんに戦前のこのあたりの農業の様子を聞いてみた。
牛込さんによれば、このあたりでは、米と野菜を作っていたという。生産量はよくわからないが、収穫できる米は、二~三等米がほとんどであった。
野菜は、明治時代のころからツケナ・ネギの他、枝豆を栽培していた。特に枝豆は両国の花火目当てによく売れた。野菜は牛車で浅草浜町や江東市場などに運び、帰りには下肥を持ち帰ったという。後に秋葉原や築地、巣鴨などの市場にも野菜を運び込むようになった。
また、戦前からメジソやホジソといったツマモノ(刺身や吸い物などに少し添えて、季節感や風味を演出する高級野菜)栽培への取り組みが始められた。
養蚕を行う農家もあり、畑の周りに桑の木を植えて、その葉を蚕にやっていた。紙漉をする農家もあり、今でも、「紙屋」という屋号の家があるという。
戦争直後は、食糧不足で米・麦・サツマイモなどをつくり、米は足立農協へ供出していた。
戦後しばらくはまだ農村風景も保たれ、水もきれいで満願寺の前の用水で泳げた。タナゴ・フナ・エビ・ウナギ・ナマズなどもいて、よく掻い堀りをした。戦中から戦後にかけて食用ガエルを捕える人もいた。
農地解放後も米は作っていたが、朝鮮戦争が起きた一九五〇(昭和二五)年から、五三(昭和二八)年ころにかけて借地借家が増え、用水堀に生活排水が流れ込み、米が病中害で被害をうけるようになった。このため、戦前から始められていたメジソやホジソといったツマモノ栽培への切り替えをはかった。土を一尺掘り下げワラクズを入れて下肥をかけ、その上から土をかぶせて種を蒔き、ガラス板で覆う(昭和三〇年代からはビニールで覆うようになった)。すると、発酵熱で暖かくなりツマモノがよく育つ。このツマモノは一時盛んに作られ、神田、築地市場によく出荷したという。
その後、土地を宅地化する人が増え、農地は急激に減った。六七(昭和四二)年、環七通りが貫通して以降、次第にアパートが増え始め、農地はなくなってしまった。
西新井栄町の東南にあった亀田耕地とよばれたあたり(現在の亀田小学校周辺)もかつて田畑が広がり、米や野菜をつくっていた。また、このあたりの池には蓮が植えられていたという(『亀田小学校三〇年のあゆみ』)。