【上表】の募集要項にあるように、住居は全寮制であった。磯野たみは、この寮の様子を次のように語っている。
「寄宿舎の部屋は一畳、八畳、六畳とさまざまで、部屋の広さに応じて、五人ないし三人が割り当てられ、先輩が室長として世話をしてくれた。」
食堂、風呂、診療所もあり、当時の従業員の話では他に売店やテニスコートなどもあり、日常生活を送るだけの施設は整備されていた。また、【募集要項表】にあるように夜間、小学校の先生が国語や裁縫(和裁)を教えるとなっており、工場内で教育も受けられた。一九二九(昭和四)年には、工場内に天真実科女学校が設立され、そこで作法、裁縫、国語、唱歌を学ぶことができたという。
前借金をし、外出制限を受けている女子工員以外は、休み時間には自由に外出できたようだ。磯野たみは当時のことを次のように話している(「実科女学校」が話しにでてくるので、一九二九(昭和四)年以降の話しであろう)。
「食堂で朝食をすますと寮に帰って一寝入りして好きなテニスをしに工場敷地内のコートへ出たり、和裁を習いに外出もした。和裁は実科女学校で教わる人や寮近くの民家へ教わりに出る人とまちまちであった。自由に外出できたのは前借金をしなかったからかもしれない。」
しかし、外出制限を受けている女子工員たちの楽しみは、売店であったようだ。先の藤野久子は、工場内の売店に配属されたが、そのころの工場内の売店の様子などを次のように語っている。
「売店には、日用雑貨をはじめ反物まであらゆる商品が陳列されていたので、外出を制限されている人は品物を見てまわったり品定めしたりすることが唯一の楽しみであったようで、給料日になるとそれは賑わった。」
当時の工場勤務は、今以上に厳しいものであったと思われるが、そうした生活の中でも、楽しみをみつけようとする女子工員たちの姿がうかがえよう。
女子工員は、戦前の最盛期には二〇〇〇人ほどもいて、三~四交替のフル操業で軍服などの綿製品を作っていた。戦争に突入してからは、ゴムと繊維などを組み合わせてブレーキ材料を作ったりし、工場生産上、重要な役割を担っていた。