志太先生義広の梅田居住

318 ~ 318

 『風土記』には、「其後、志太先生義広、一旦此地ニ閑居セシガ、夫ヨリ五代ノ孫常陸介久広此ニ来リ住セリ、此人氏ヲ梅田ト改シニヨリ、村名ヲモカヘシトイヘリ」とあり、梅田が開発されて以降志太先生義広(しだせんじょうよしひろ)が一時梅田に住み、さらに義広から五代目にあたる久広もこの地に居住したという。志太義広は、源為義の三男で、頼朝に敵対し小山朝政に敗れたのちに梅田に住んだ。さらに、義広三代孫義純もこの地に蟄居(ちっきょ)し、義広五代孫久広はこの地に住み、姓を梅田に改めた。先の『風土記』の記述では梅田姓となった久広が居住したためにこの地が梅田となったとしているが、先の理由からこの説は本末転倒で、久広が梅田の地名にちなみ、姓を梅田に改めたと考えるのが一般的であろう。

 中世においては梅田は渕江とよばれ、戦国期に作られた『小田原衆所領役帳』に渕江の記載がみられ、三〇貫文の貫高(年貢高)が付けられており、足立区域では江戸時代以前に成立した古村であることがわかる。