志太先生義広は、梅田の小字である榎戸に明王院を建てたが、その場所は江戸時代初期に新田開発の場となる。つまり一六一六(元和二)年に関東郡代伊奈半十郎忠治から榎戸新田の平内が抱える名主・百姓が、榎戸新田の開発を許可されている。
その文書には、「①田は開発した年に限り年貢を免除するが、従来から野銭を納めているところは、その年は野銭を取ること、②畑は開発した年から二年は年貢を免除するが、従来から野銭を納めているところは、三年間は野銭を納めること、③年貢以外の雑税や労働役など諸役は免除する、④地頭(旗本領主)・代官と諍いがある新田への移住者は、抱えないこと、⑤右の事柄をよくよく調べて、支障の無い者は新田への移住を許可する。諸役は必ず免除するので、念を入れ新田開発をするように」という内容が記されている。
この内容から、開発対象地は、既に開発された耕地ではなく、山(入会地)などいままでに開発されなかった地であり、直接開発者は他村からの移住者であり、一定の開発期間は年貢諸役が免除されていたことがわかる。名主・百姓を抱える平内は、一六一四(慶長一九)年に普賢寺・三谷で、一六一六年に大谷田と六木で、名主・百姓を抱えながら新田開発を行った。