戦災

320 ~ 320

 戦前梅田には軍事関係の工場が存在し、太平洋戦争末期に東京で空襲が激しくなると、梅田も爆撃の対象地となった。そして、一九四五(昭和二〇)年三月の空襲と四月の空襲で梅田は被災した。その地域は、旧東武線の西側で、千住八千代町(梅田一・三・四丁目)のほとんどと、現梅田二丁目の全域、現梅田六丁目の大部分、梅田五丁目神明通り周辺など、梅田の半分以上の地域である。神明通りなど梅田の旧集落が被災したのが特徴的である。人的な被害もあり、例えば鴨谷常蔵さんは母姉弟を亡くし、本人も爆風に飛ばされ一か月意識がなかったという。また、戦後疎開先から帰ったり、外地から復員してきたときに、梅田の家が焼けて無くなってしまったのに大変驚いた人は少なくはない。


爆撃による焼失範囲