元来梅田は洪水が起きやすい地域ではなかったが、荒川放水路が開削されると、堤防で逃げ場を失った悪水が、地盤沈下によって低くなった梅田へ集まり、水害の常襲地帯となった。この対策のために、一九五一(昭和二六)年に梅田四丁目二七-二の地に梅田排水場が建設された。しかし、五八(昭和三三)年九月の二二号台風で、梅田・本木地帯を中心に大洪水となり、足立区は六万七〇〇〇戸が浸水した。東武鉄道、国道、一般道路も冠水して、交通がストップし生活がおびやかされた。そのため学校を避難所として多くの区民を収容した。
さらに、一九六一(昭和三六)年六月、台風六号が通過した際にも、同月二四日から三〇日まで梅田は床上・床下浸水の被害があり、荒川放水路堤防に沿った堀から四機のポンプで放水路へ放流した。ついで、一九六六(昭和四一)年六月には、台風四号が通過した際に、やはり梅田で同様の被害があった。
このため、一九六七(昭和四二)年に梅田一丁目二五-五の地に川田橋排水場が建設され、地域の雨水、家庭排水、大雨時の洪水を荒川放水路へ放流できるようになった。しかし、一九八六(昭和六一)年三月に、首都高速道路の支障となったため、川田橋排水場は廃止され、翌年三月に新川田橋排水場が梅田一丁目二四-一〇に移設された。また梅田排水場はその後機能が拡充されたが、①樋管の老朽化、②補助一一三号の拡張工事への支障、③建設省荒川左岸堤防改修工事への支障を理由に同排水場の撤去が計画され、一九八六(昭和六一)年一〇月に同機能を停止し、翌年三月に樋管が撤去され、当排水場は廃止された。
その際に東京都梅田ポンプ所(梅田四丁目二四-一八)が拡張され、梅田排水場流入水を受け入れた。同ポンプ所は、一九七七(昭和五二)年五月に、「荒川左岸の足立区西部地域の雨水、汚水を吸揚し、汚水を梅田汚水幹線、中川汚水幹線より中川処理場へ送水し、雨水を荒川に放水する」という目的で建設された。当初は無人で運用される予定であったが、現在では常時六名が同所に勤務している。
同所の創設によって、一九七三(昭和四八)年から始まった堤北の下水道工事とともに、水害からの開放という戦前からの人びとの願いが実現されたといえる。
このような排水機能の充実で、梅田に洪水はめったに起きなくなった。