由緒

329 ~ 330

明王院の由緒を示すものに、「武州足立郡梅田村万徳山梅林寺明王院縁起」(略して「明王院縁起」ともいい、以下本史料をこの名称でよぶ)がある。「明王院縁起」は一六九三(元禄六)年二月に当時住僧であった快尊によって記されたもので、六二八字に及ぶ長文である。『風土記』に記された当院の由緒は、「明王院縁起」に依っている。以下、『風土記』の記述を紹介する。

元禄六年二月、時ノ住僧快尊ガ記セシ縁起アリ、其略ニ云、当寺ノ濫觴(らんしょう)ハ、六条判官為義ノ三男、志太先生義広当所ニアリテ小名榎戸ト云所ニ当寺ヲ建立シ祈願所トセリ、後義広右大将頼朝ニ敵対セシ時、小山判官朝政ニ敗ラレテ逐電(ちくでん)セリ、後三世ノ孫義純祖父ノ縁ニツキテ当所ニ蟄居(ちっきょ)セシヨリ、其孫常陸介久広ニ至リ鎮守天満宮ヲ勧請ス、此頃氏ヲ梅田ト称シ、当寺ヲ萬徳山梅林寺ト号セリ、其子孫太郎左衛門久義ニ至リ、永正ノ頃上京シテ、ヤガテ丹後国ニ住セシカバ、当院大破ニ及ビタリ、其後久義ガ弟頼専坊ト云ル、僧再ビ造営ス、慶長年中僧真如ガ住セシ頃、当院ヲ久義ガ旧跡ニ移シテ堂宇ヲ作リシニヨリ、是ヲ中興開山トス、寛永二十年頃春、大猷院(だいゆういん)殿此辺御放鷹(ほうよう)アリシニ、当院初テ御膳所トナリ、又此時由緒ヲ尋サセ賜ヒシカバ、其本末ヲ言上セシトゾ、是ヨリ今ニ至リテ御放鷹ノ度ゴトニ御膳所トナレリ、開基義広及ビ中興久義ガ牌子(はいし)アリ、トモニ元禄八年九月義広二十四世ノ裔梅田六郎左衛門義清ガ造ル所ナリ、義広カ位牌ノ裏書ニ、義広者八幡太郎義家孫六条判官為義ノ三男也、住常州伊出後移、同国志太村、故之号志太、於武州榎戸建一院、号明王院、及後世而慶長年中移梅田村、且当寺起立之大檀越矣、又義清ガ曽祖梅田左馬助久義、祖太郎兵衛久頼、考太郎兵衛久友ガ法諡(ほうし)ヲ記セシ牌子ノ裏ニ先生五世常陸介久広依神勅始而以梅田為家号、改梅田小太郎久広十六代梅田帯刀久光、男太郎左衛門久義、後号左馬介、永正中出奔、梅田而到丹後国住嶋村城、後移峯山城、為敵遂生害、長與久頼及久友峰山住人云々

 この記述によると、まず、明王院は祈願所であり、これを開基したのは志太先生義広であることがわかる。この寺が存在した場所は現明王院の場所ではなく、「榎戸」であった。榎戸は、梅田の小名で現在の梅田の南方、放水路の河川敷にあたる。次にこの記述から、その孫三世義純は義広の縁で梅田に蟄居(ちっきょ)し、その孫五世久広は鎮守天満宮を勧請し、この寺は萬徳山梅林寺といい、つまり現在の明王院の山号寺号にあたる寺であった。さらに、久広子孫二一世久義が永正ごろに上京して丹波国へ住んだのち当院は荒れ果てたが、慶長年中真如は当院を久広の旧地である梅田に移し堂宇を造ったため、真如は当院の中興開山となった。その後一六四三(寛永二〇)年に三大将軍家光が鷹狩を実施した際に、当院は御膳所となり、その後は歴代将軍の御膳所を勤めるようになった。