如意輪観世音菩薩坐像

331 ~ 332

如意輪観世音は、如意宝珠と宝輪をもって人びとの願望、とくに延寿・安産・除難を祈って成就させる菩薩である。観世音の根本の聖観音が変化した姿で、手腕の二臂で半跏(はんか)と六臂(ひ)で立膝の像が多く、明王院像は後者の姿をなしている。像高三三・九cm、檜材、寄木造、玉眼、〓毫水晶嵌入(びゃくごうすいしょうかんにゅう)。宝冠と胸飾は銅板鍍金(ときん)を唐草文に透かし彫りであらわし、胸飾に色ガラス玉を連ねている。但し欠失部分が多く、頭頂の髷(まげ)はなく、六臂のうち不完全な二臂を残すのみであった。この像にはもともと彩色や漆箔(しっぱく)がなく、木地のみの檀像様式である。胎内の各部に墨書があり、像内前面に「願主直空 作者法眼〓秀 応安二年(一三六九)大呂(陰一二月)一七日」とあり、そのほかに頭部内に永正一八年(一五二一)六月再興、背面内に同時に本堂再興、両足部内に寛文元年(一六六一)八月に修理が記されている。これらによって制作年代と修理に及んでいることがわかる。作者「〓秀」は、他に作例と文献がないことから明確な人物ではない。〓は院の異体字で、院を名前につくところから院派系と推定される。

 院派仏師とは、平安中期の大仏師定朝(じょうちょう)を受け継ぐ正統な京都仏師として宮廷貴族の庇護のもと都風の洗練した作風を展開し、七条大宮仏所と六条万里小路仏所に分かれて、大いに活躍した。その後、鎌倉初期に出現した運慶を出発とする七条仏所の慶派仏師に造仏活動の中心が移ったのは、慶派の作風が力強いことで時代の要求に適合したことにあり、特に鎌倉武士の趣向にあっていたからである。

 しかし、院派仏師も一三世紀から一四世紀中ごろにかけて鎌倉を中心に造像している。清水真澄氏は院派の特徴を制作構造と様式の二面から挙げている(「仏師院廣とその作例」国華九七三)。それは寄せてある部材の前面の材は腹下から地附まで一本の束をおろしていることで、鎌倉に残る院派仏師の考案した技法といい、また慶派作風と比較して、「面相は優しく、衣文の扱いもまるみをおびて柔らかい」作風をあげている。そういった共通性から〓秀は鎌倉で活躍した院派仏師かもしれない(郷家忠臣「足立の古代・中世(奈良~室町時代)の仏教遺物」『足立区立郷土博物館総合案内』)。