梅田図書館(梅田七丁目一三-一)

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足立区の図書館活動は古く、他区に先駆けて一九五〇(昭和二五)年、現在のエル・ソフィア前交差点近くの第九中学校側正門前右(梅田七丁目三三-八辺り)に始まった。

 戦後間もなく誰が提唱したか定かではないが、区内全町会で一円募金運動が展開された。当時学生だった安藤義雄さんは、父の言いつけで大谷田町(現中川)隅田町会の会員から集められた一〇銭や一円の硬貨を地元町会長宅へ届けた。当時区議会議長だった会長の遠田漂治さんは、座卓に山と積んだ硬貨を五〇枚ずつ包装していた。何の募金かをたずねたところ、公立図書館建設のものであると言う。自分が文学好きだったこともあって、多くの人の募金で図書館を建てる事に感銘を受けた。その光景は今でもはっきり覚えていると言う。

 その後、旧梅島町役場跡地(現成和信用金庫用地約二三五坪)に決定した。しかし、報徳信用組合長中野智厳さんの強い要望により梅田町五三〇番地の(現第九中内正門横)約五一五坪と交換売買して、五〇(昭和二五)年三月工事着工、同年九月梅島図書館が完成開館した。続いて一二月には千住図書館が設立された。図書館の開設に当たって、岡本祐海教育委員の提案で、各家庭から読み終えた古本を献本してもらうことと併せて、婦人会が中心になって、五円・一〇円の寄付金を募り、蔵書確保につとめた。開設当初は、大人一回三円、子ども二円だったが翌年四月からは無料となった。一一月には、都立日比谷図書館から五、五六三冊の寄贈があり、地域住民の熱い期待と努力のもと、梅島図書館として足立区の図書館活動が、ここ梅田からスタートした。

 利用者は連日定員を超えて満員の状況であった。当時図書館員だった井上啓子さんは、図書館で熱心に勉強する青年たちに、昼食にはラーメンを注文するサービスもした。また、職員のレコードを持ち寄り、レコードコンサートを開くなど、敗戦後の復興期でまだまだ生活が苦しく、衣食住もままならない時期、精一杯の文化のかおりを届けたいと努力したと言う。

 五二(昭和二七)年には、図書館に来られない人のために、特別仕立ての車にたくさんの本を積んで、閲覧や貸し出しを行う移動図書館「きぼう号」が開設された。「きぼう号」は、区内一一か所四コースに分けて巡回し、各地でボランティアが協力するなど、多くの子どもたちに本を届けたいとの活動が活発に行われた。

 五四年には週二回夜九時までの夜間開館も実施された。また、月二回のレコードコンサートも定期開催となった。六二年に宮城図書館、六五年に新田図書館が開館した。

 その後、図書館法が制定され、図書館の有るべき姿が示された。当区でも「図書館政策の課題と対策」を発表し、足立区の中央図書館(現梅田図書館)が開設された。梅島図書館は中央図書館に引継がれ十九年の歴史を閉じた。


梅田図書館(2001<平成13>年)

 中央図書館は、文化活動の拠点として、郷土資料の収集展示、映画会、レコードコンサートともにレコードの貸し出しも始めた。さらに学校や、地域子供会などへの団体貸しだしをする、フィルムライブラリーなどの活動も加え充実していった。

 その後は、図書館長期計画に基づき、各ブロックに社会教育館などと併設して図書館が設置され、中央図書館と地域図書館で一六館(コミュニティ図書館二館を含む)になった。区内全ての図書館をオンラインで結び、一二〇万冊の蔵書がどこからでも検索出来、一日二回のメール車が各館を巡回して、必要な本は、最寄りの図書館から貸出すなど区民サービスの充実向上が図られている。

 「きぼう号」は、地域図書館の充実に伴って、八七(昭和六二)年に廃止になった。

 さらに、足立区中央図書館は、二〇〇〇(平成一二)年七月、生涯学習総合施設「学びピア21」の中に中心施設として新たにスタートした。

 このことにより梅田の中央図書館は、三一年間の中央館の役目を譲り、梅田図書館として地域の生涯学習の拠点となって再出発している。