両雄士伝
近藤昌宜(まさよし)、通称は勝太、後に勇と改む。武蔵多摩郡上石原村の人、宮川久次の第三子なり。倜儻(てきとう)[注1]にして大志あり、少(わか)くして其の二兄、光信・宗信と劒を近藤邦武(周助と称し、周斎と号す。多摩郡小山村人、島崎某の子なり。初め近藤内蔵前、名は長裕(ながひろ)なる者あり。劒法を創(はじ)めて天然理心流と曰(い)う。坂本某の子、三介、名は方昌を養いて嗣とし、邦武、方昌に養われて、益々其の業を盛んにす。場を江戸市ヶ谷に構え、従いて游(あそ)ぶ者、千有余人。慶応丁卯[注2]十月病没す。年七十有六)に学ぶ。嘗(かつ)て夜、強盗数人、刃を露(あらわ)にして其の寝に迫る。昌宜、年甫(はじ)めて十六、其の二兄と縦横にこれに当たる。群盗敵せず、懾(おそ)れて奔竄(ほんざん)[注3]す。邦武、大いにこれを異とし、其の父に謁して曰く、吾、年六旬[注4]を踰(こ)えて子無く、常に一勇士を養いて以て我が後を承(う)け、且つ以て、国家佗日(たじつ)[注5]の用に供するあらんことを願う。子(し)の児に非ざれば、以て我が望みに副(そ)うなし。請う、幸いに我に割愛せよ、と。久次、これを聴(ゆる)す。因りて近藤氏を冒(おか)す。長ずるに及びて技益々進み、殆(ほと)んど神に入る。邦武、悉く秘訣を伝え、以て其の業を襲わしむ。
この時に当たりて内憂外患交々(こもごも)蝟集し、列藩、議を異にして人心定まらず。文久癸亥[注6]の春、大将軍(家茂公)に詔して入覲[注7]せしめ、議するに国是を以てす。大将軍すなわち志士を草莾(そうもう)[注8]に募り、以て焉(これ)に従わしむ。昌宜これを聞き、奮って其の友、土方義豊(よしとよ)と誓いて俱(とも)に身を以て幕府に致し、死生これを以てせんとし、門人、沖田房良(かねよし)(総司と称す。白川の人。撃劒は新選隊の巨擘(へき)[注9]と称せらる。明治戊辰[注10]五月、病みて江戸に没す。年二十有七)、山南知信(とものぶ)(敬介と称す。仙台の人、また(撃劒を善(よ)くす。嘗て江戸に游(あそ)び、昌宜と技を較べて勝たず、遂に弟子の礼を執と)る慶応乙丑[注11]、故ありて昌宜、其れをして自尽せしむ、年三十有三)、井上一重(かずしげ)(源三郎と称す。また多摩郡日野駅の人、戊辰の変に澱(よど)に戦死す。年四十)、長倉新八、斎藤一等(ら)を率い、以て其の徴に応じ、其の佗(た)の応募する者二百六十人と、二月八日を以て途に上り、二十三日入京す。
土方義豊、通称は歳三、また多摩郡石田村の人、土方義諄の第四子なり。風度瀟灑(しようれい)[注12]、沈毅にして事に耐え、寛裕にして物を容る。甫(はじ)め十七、邦武の門に入り、未だ幾(いくばく)ならずして技大いに進む。昌宜と意気相投じ、親交すること兄弟の如し。
既にして大将軍入覲し、尋(やが)て命あり、応募に嚮(むか)いし者をして皆東下せしむ。隊を結び、号して新徴と曰う。昌宜、慨然として義豊に語りて曰く、方今、士風、正を失い、不逞の徒を群(あつ)めて、動(ややもすれば)、輙(すなわ)ち結集して隊を為し、幕府を陵駕し、法を謾(みだ)り、律を乱し、以て勤王有志となし、横議暴行、至らざる所なし。物情洶々(きようきよう)、変は不測にあり、今日の計を為すは、且(しばら)く輦轂(れんこく)[注13]の下(もと)を粛正し、勤王、佐幕、両相(ふたつながら)、愈(ゆ)[注14]を為すに如かず、と。義豊曰く、善(よ)し、と。すなわち同志十三人と連署し、以て幕議の之を可とせんことを請う。命じて松平容保(肥後守、時に京都守護職たり)に隷せしめ、新選隊と称す。昌宜、長となり、義豊、副たり。番を分けて諸坊[注15]を巡察し、二人の威名、是に於て日に著しく、来りて属を乞う者は無数なり。新選隊の名の噪(そう)[注16]なる、一時なり。
時に処士の京摂[注17]の間に嘯集(しようしゆう)[注18]する者、攘夷に藉口(しやこう)し、往往にして豪富を迫劫(はくごう)[注19]して軍資を募ると称す。市街、大いにこれに苦しむ。一日、その党数人、鴻池(こうのいけ)某に逼(せま)りて金若干を仮る。某、苦しみて請い、纔(わず)かに其の期を緩む。走人、新選隊に愬(うつた)う。昌宜、義豊、知信を遣り、以て之に備う。期に及びて果たして至る。二人、挺身して数人を斬る。余は皆遁去す。某、之を徳とし、昌宜等に謝するに、名刀各一口を以てす。
古高俊太郎なる者(また処士なり。続国史略に俊を新に作るは誤り)あり。姓名を変じて升屋喜右衛門と称し、四条小橋西(続国史略に木屋坊となすは誤り)に住し、京師に放火せんと謀る。昌宜・義豊、之を偵知し、元治甲子[注20]六月五日、捕えて之を獄に送る。掠を治むること数次、始めて其の実を得たり。其の夜、また其の党数十人と三条坊に闘い、七人を斫(き)り、二十三人を縛す。幕府、之を偉とす。昌宜以下、褒賞差あり。昌宜を擢(ぬきんで)て上班騎士[注21]に列せしむ。義豊これに次ぐ。二人曰く、人臣として君に事(つか)うるや、ただ力をこれ見(あらわ)す、固(もと)より其の職のみ、と。辞して受けず。
秋七月、長門藩将、福原越後・国司信濃・益田右衛門等、〓訴に託して将兵数百、分かれて京師を襲う。官軍奮戦し、之を破走せしむ。別将・真木和泉、天王山に屯す。昌宜・義豊、進みて之を攻む。賊、山上より銃礮(ほう)を連発す。弾丸雨注す。二人は屈せず、勇を皷して猛進し、会人(容保、奥州会津を治む)西郷源五郎・浅川正等(ら)と力を僇(あわ)せて奮撃し、また大いに之を破る。和泉、其の党と営を燔(や)きて自殺す。福原等三人、纔(わず)かに身を以て免れ、海に航して遁れ去る。事平らぐ。幕府、戦功を奏賞し、特に昌宜に命じて両番頭(ばんがしら)次班(小性組番頭、書院番頭なり。目(もく)[注22]に曰く、両番頭は、麾下伐閲の臣に非ざれば則ち此の職に任ずるを得ず、と)と為(な)す。また固辞して拝せず。幕府、大いに昌宜・義豊を偉なりとし、屢々(しばしば)奇功を奏するも、冲然[注23]として自ら伐(ほこ)らず、礼遇殊に渥(あつ)し。人みな之を栄とす。
慶応丁卯十月、大将軍(慶喜公)表を上(たてまつ)りて軍職を辞し、幷(あわ)せて政権を解く。十二月、京師を去りて大阪城に入る。明治紀元戊辰正月三日、詔を奉じて入覲す。先に其の行人[注24]、滝川某を遣(や)り行を二関(伏見・鳥羽)に報ぜしむ。戍兵(ぼへい)[注25]納めず、急ぎ関を鎖ざし、色然[注26]として繹騒(えきそう)[注27]す。某曰く、寡君[注28]、詔を奉じて入覲するに、公等(ら)、故(ゆえ)無くして之を沮(はば)むは何ぞや、と。戍兵省みず。既にして東軍、麕(むらが)り至る。戍兵、大熕(こう)[注29]を発し、之を遮(さえぎ)る。東軍已(や)むを得ず応戦し、弾丸交々(こもごも)注ぐ。義豊が督する所の部、縦横に馳突す。嚮(むか)う所、皆靡(なび)く(按ずるに、徳川公の京師より大阪に入るや、昌宜、義豊を伏見に留む。既にして急ぎ昌宜を召して謀る所あり。帰路、銃を盗みて狙撃するあり。弾、右腢(ごう)[注30]を洞(とう)す。創(きず)劇(はげ)し。公、聞きて大いに驚き、急ぎ侍毉(じい)を遣りて看護せしめ、昌宜を召し還す。城に入り以て治療す。故(よ)りて以て伏見の戦に与(あずか)らず。続国史略は則ち曰く、東軍、大阪に郤(しりぞ)くに及び、昌宜、兵を率いて之に殿(しんがり)す。伏見の師起こるに及び、昌宜、東軍を指揮し、銃、其の股を傷つくと。皆誤りなり)。
既にして東軍潰敗し、徳川公、海を航して東帰す。昌宜・義豊、艦(回陽丸)を同じくして扈従(こじゆう)し、常に其の側に在り。二月、官軍、水陸より竝び進み、以て江戸を討つ。三月朔、昌宜・義豊、甲陽鎮撫となり、率いる所の部一百余人にして発し、五日、都留郡猿島駅に至る。六日、因土二軍と勝沼に遇い、戦いて克(か)たず、走りて江戸に帰る。また下総流山に出陣す。四月三日、官軍、大挙して来襲し、之を囲むこと数匝(すうそう)[注31]、昌宜、遂に出でて囚に就く(或いは云う。昌宜、甲陽にて敗るるの後、人あるいは之に教う、姑(しばら)く難を会津に避けよと。昌宜、聴かずして孤軍彷徨、遂に此に至る。以て智となすべからず、と。政[注32]、是を按ずるに、殊に昌宜を知るに非ざる者の言なり昌宜は当時、親しくせる所に語りて曰く、諸道の官軍、主君の恭順して東台に屛居せるを聞き、則ち鼓行して直ちに城下に輻湊(ふくそう)[注33]するや、日を数えて待つべきのみ。この時に当たり、変、或いは肘腋(ちゆうえき)[注34]に起こらば、其の奇禍、固(もと)より測るべからざる者あり。一念、此(ここ)に至りて、吾、また君側を離逖(りてき)[注35]するに忍びざるなり、と。此の言や、以て昌宜の昌宜たる所以(ゆえん)を見(あらわ)すというべきなり。未だ遽(にわか)に成敗を以て其の不智を論ずべからざるなり)。
人、或いは其の材を惜しみ、説きて之に降らしめんと欲し、百端を解譬(かいひ)[注36]し、喩(ゆ)するに順逆を以てす。昌宜、傲然として色を正して曰く、伏見の事、寡君、謹みて詔を奉ずる旨、聊(いささか)も不臣の意を介(さしはさ)まざるに関戍、翅(ただ)に之を拒むのみならず乃(すなわ)ち軽挙暴発し、銃礮(ほう)して相待つ。寡君の応戦、苟(まこと)に其の死を自ら拯(すく)う、万、已(や)むを得ざるに出ずるのみ。是、其の曲直、昭々明晣なり。然れども讒慝(ざんとく)[注37]乱りて聴(ゆる)され、曾て鞠(きく)[注38]されざる罪の由る所、俄かに寡君に負わすに逆罪を以てし、天兵、来りて討つ。是、臣等の痛恨骨を刺し、敢て万死を冒し、以て君の寃(むじつ)を雪(すす)ぎ、肝脳地に塗(まみ)れて厭(いと)わざる所以のみ。成敗は天なり。何ぞ必ずしも喋々を須(もち)いんや、と絶命詩二首を作りて曰く、
孤軍援(たすけ)絶えて俘囚と作(な)る
君恩を顧念せば涙更に流る
一片の丹衷、能(よ)く節に殉ず
雎陽(すいよう)[注39]千古、是れ我が儔(とう)[注40]
他(かれ)に靡く今日復(ま)た何をか言わん
義を取り生を捨つるは吾が尊しとする所
快(と)く受けん電光三尺の劔
只(ただ)将(まさ)に一死、君恩に報いん
二十五日、遂に板橋駅に斬らる。首を醃(えん)[注41]して京師に送り、之を四条磧(さく)に梟す。昌宜、忠義骨に徹し壮勇無比、刑に臨んで進退温雅、辞色平日に異ならず、従容として刃を受くると云う。時に年三十有五。
初め其の出でて囚に就かんとするに、義豊、与(とも)に共にせんと欲す。昌宜、不可として曰く、人臣、節を效(いた)す、寧(なん)ぞ死に止まらんや、と。義豊、固く請う。昌宜、色を作(な)して曰く、子は豈(あ)に程嬰(ていえい)、公孫杵臼[注42]の忠邪を聞かずや、と。義豊、撫然として之久し。曰く、諾、と。乃(すなわ)ち止む。是(ここ)に於て榎本武揚等を謀りて曰く、我聞く、公、詔を奉じて城を献じ、罪を水戸に竢(ま)つ。事迫れり、宜しく会津に趨き以て後図を為せ、と。武揚、堅艦に駕し、海を循(めぐ)りて東す。義豊、其の属と与(とも)に今戸を発し、下総国府台に陣す。是の夜、徳川脱籍の士の来り会する者、踵(くびす)を接す。
四月十九日黎明、秋月登助・大鳥圭介と与(とも)に兵を率いて宇都宮を襲う。官軍、之を途に邀(むか)う。三人、撃ちて大いに之を破り、直ちに進みて城に薄(せま)り、之を抜く。義豊、流弾に中(あた)りて足を傷つく。二十六日、田島に至り、二十九日、若松城下に達し、創を療す。既にして会津侯に謁す。侯、礼待すること尤(もつと)も厚し。八月二十三日、官軍、城に薄(せま)る。二十四日、城兵出でて戦い、殺傷相当なり。義豊、松平定敬・竹中春山・大鳥圭介等と与(とも)に網木に出陣す。
九月二十三日、若松、守りを失い、侯、重臣を率いて陣を出ず。是より先、義豊、城に在りて数々(しばしば)苦戦す。孤城、数倍の敵に当たり、内に糧仗[注43]乏しく、外に応援絶え、度(はか)るに其れ久しく支えざるを見て、親しく往きて援を仙台侯に求む。侯、其の忠に感じ、授くるに精兵三千を以てし、佩刀を贈り、以て之を遣(や)る。将(まさ)に発せんとするに、城の陥るを聞きて乃ち止む。時に武揚、石巻に在り。圭介等、また兵を率いて来り会す。乃ち与に共に、将(まさ)に函館を奪いて之に拠らんことを謀(はか)る。
十月十九日夜(十九日は続国史略、両窓紀聞に拠れば十八日と為す)、六艦を帥(ひき)いて鷲木(函館を距たること十里)に至る。兵凡そ三千人。二十一日、上陸す。分けて二隊とし、圭介、一軍に将として函館に嚮(むか)い、養豊、一隊に将として嶺より下る。二十五日、攻めて五稜郭を抜きて之に拠る(中島氏の日記、二十六日と為す。義豊、河を踰(こ)え、嶺に汲み、五稜郭を抜く)。二十八日、義豊、兵七百を率いて五稜郭を発し、将に松前を攻めんとし、十一月朔、尻内に次(やど)る。夜半、敵、我が労に乗じ、潜軍[注44]44、之を襲う。義豊、諸軍を指揮し、縦衡に奮撃す。劔鋩(ぼう)、火を撒(ち)らし、敵、遂に郤(しりぞ)き走る。
四日、福島に至り、五日、松前城に傅(いた)り、三面より斉(ひと)しく攻め、遂に之を抜く。尋(つづ)いて江刺を取り、十五日、五稜郭に還る(按ずるに、松前の役、諸書の載(の)する所、各々異なれり。中島氏の日記、記する所は此(かく)の如し。頃(ちかごろ)、市村某、余の為に語る所、また日記に同じ、某則ち当時、軍に在りて親しく其の事を目撃せる者なり。則ち日記の伝うる所は是に近し)。
十二月、武揚等、英仏船将に嘱して朝廷に上書し、また権を議して首長を置き、衆をして公選せしむ(按ずるに、続国史略は、武揚以下四名、皆、首長と為り、土方及び永井玄蕃は与(あずか)らず。説夢録に拠れば、則ち陸軍奉行並(なみ)土方歳三、函館奉行永井玄蕃。また中島氏日記は陸軍奉行土方歳三。また安富正儀筆記は陸軍奉行並びに海陸裁判兼土方歳三なり。未だ孰(いず)れか是(ぜ)なるかを知らず、姑(しばら)く幷存し、以て後按を待つ)。
朝議、其の書辞の不敬なるを咎め、遂に詔を下して之を討つ。己巳[注45]三月、官軍は海陸並び進む。四月十三日、暁に乗じて二股・木古内(きこない)を分襲す。圭介等、兵を率いて木古内を逆戦す。官軍潰敗す。義豊、古屋作左、大川正二郎等と二股を逆戦[注46]し、午(ひる)より旦(たん)[注47]に達(いた)り、連戦皆勝ち、遂に大いに之を敗る。五月朔、塞を要害に築き、兵を分って之を守る。義豊、武揚・圭介等と之を分督し、並びに入りて五稜郭に拠る。十一日昧爽(まいそう)[注48]、官軍、大挙して函館に薄(せま)る。義豊、奮戦して竟(つい)に之に死す。年三十有五なり。衆、哀悼せざる者莫(な)し(両窓紀聞に云う。義豊の戦死は一本木なり、と。中島氏日記と某氏の話す所に拠れば、義豊、弁天砲台の戦い急を聞き、将(まさ)に援に赴かんとし、額兵[注49]一小隊、伝習兵一小隊を率い、一本木より進みて異国橋に至る。馬上、鞭を挙げて指揮。偶々(たまたま)、飛丸、臍下に洞(とお)り、馬より墜ちて死す。従士、屍を担いて五稜郭に還り、壙(あな)を穿ちて之を窆(ほうむ)る)。
十八日、武揚・圭介及び永井玄蕃、松平太郎・荒井郁・松岡磐吉・相馬主計等千余人、出でて軍門に降る。初め、義豊の今戸を発するや、従う精鋭一百五十人、四月より九月に至り、転戦すること数無く、已に八十九人を喪(うしな)うも、群下和輯(わしゆう)[注50]し、終に一人の怨望脱隊し、遁逃して活を求むる者無し。其の士人をして景慕を為さしむる所、此(かく)の如し。
其の後、函館の大賈(か)[注51]、大和屋某、為に碑を称名寺(函館にあり)に建て、以て其の冥福を修す。義豊等の函館に拠るや、資糧尤も乏し。衆、相謀りて、将(まさ)に之を豪富に募らんとす。義豊、不可として曰く、我が曹(そう)[注52]、事已(すで)に此(ここ)に至る。仮りに豪富に課さば、以て僅か数月は延びんも、猶(な)お其の支えざるを恐るるなり。且つ、独り此のみならず、或いは之に繇(したが)いて民心を失わん、則ち禍を蕭牆(しようしよう)[注53]に畜え、戮(はじ)を主公に貽(のこ)すなり。糧は敵に因るに如かず。成敗に至りては、之を彼の蒼[注54]に委ねんのみ、と。衆、乃ち止む、富商等、之を伝え聞き、皆、其の義を高しとす、故に此の挙あり。
此(これ)に前(さき)んじ、武揚等の書を上(たてまつ)るや、義豊、愀然(しゆうぜん)[注55]として曰く、吾、流山に死せざる所以(ゆえん)の者は、聯(いささ)か望みて焉(ここ)に為すあらんとしてなり。今乃(すなわ)ち此(かく)の如し。朝議、儻(も)し寛典に処さば、吾、将に何の面目ありてか、以て地下に昌宜に見(まみ)えんや。我則ち一死有りて已むなり、と。聞く者、感奮し、為に涙下ると云う。
為政[注56]曰く、戊辰の変たる、東軍にして軀を損し、難に殉ずる者、尠(すくな)しとなさず。然して其の人の多くは皆親臣なり。世家[注57]なり。躬(み)、寒微より出で、奮いて君寃を雪(すす)がんと欲す。死を見るに甘きこと啻(ただ)に薺(せい)[注58]の如くならず、二子の如き者、其の忠誠義烈の高き、以て何如(いかん)と為さんか。嗚呼(ああ)、彼の累世、之が臣僕と為り、三百年の久しく、躬(み)、寵恩に飽くも、一旦緩急あらば則ち順逆に言を託して逡巡退縮(たいしゆく)[注59]し、甚だしきに至りては則ち国を売り、以て栄靦(えいてん)[注60]を規(はか)りて恥を知らざる者。二子の為すを見て、能く愧死する無からんや。
司馬光[注61]曰く、臣の君に事(つか)うるや、死有りて弐無し、此(これ)、人道の大倫なり。二子の如き者は、豈(あに)全き所、人道の大倫なる者と謂いて非ならんや、然れども世の焉(これ)を察せざる者、或いは以て順逆を誤り、或いは以て時勢に達せずとし、以て二子を誹毀(ひき)[注62]す。嗚呼、また誣(ふ)[注63]ならざらんか。余、自ら揆(はか)らずして、また二子の為に天下後世に白寃(えん)[注64]せんと欲して両雄士伝を為作(つく)る。
(了)
< 注 >
注1.大志があって小事にこだわらぬこと
注2.慶応三年(一八六七)
注3.逃げ走る
注4.六十歳
注5.他日
注6.文久三年(一八六三)
注7.上洛
注8.在野
注9.おやゆび、第一等
注10.明治元年(一八六八)
注11.慶応元年(一八六五)
注12.さわやか、颯爽
注13.天子の膝もと
注14.よい方法をとること
注15.町々
注16.高いこと
注17.京大阪
注18.集まること
注19.おどすこと
注20.元治元年(一八六四)
注21.お目見えの幕臣
注22.式目
注23.ゆったりしたさま
注24.客の接待や、他国へ使者として行く役
注25.守備兵
注26.怒るさま
注27.騒ぎやまぬ
注28.徳の少ない主君、へりくだったことば
注29.大砲
注30.右肩先
注31.幾重
注32.筆者の小島為政
注33.一ヵ所に集まること
注34.身辺
注35.遠く離れること
注36.たとえてさとす
注37.邪悪
注38.ゆるす
注39.中国河南にある。唐の張巡が安禄山の叛軍に捕えられて忠死した所
注40.仲間
注41.塩漬
注42.中国の春秋時代、趙の孤児を守り育てるため、一人は死に、一人は生き長らえた故事
注43.糧食武器
注44.伏兵
注45.明治二年(一八六九)
注46.逆襲
注47.朝
注48.明け方
注49.限られた兵力
注50.なごやかなこと
注51.大商人
注52.ともがら
注53.よもぎの垣根
注54.盛んに繁ること
注55.憂えて顔色の変わるさま
注56.筆者の小島為政
注57.譜代の臣
注58.そばな、俗に“甘い桔梗”という薬草
注59.しりごみすること
注60.栄辱
注61.宋代の大儒
注62.そしること
注63.無実のそしり
注64.無実の罪を晴らすこと