◆ 小島 政孝(小島資料館館長)
小島資料館が所蔵する旗本山口直邦(2000石)の写真は、これまでどこで撮られたものか不明だったが、このたび東大史料編纂所の谷昭佳氏が、小島資料館に来館され、調査の結果その由来が判明した。谷氏は、幕府代官江川家の江川文庫の写真を整理していて、これらの写真が、江戸の江川邸で、中浜万次郎が撮影したことを、江川家の「在府日記」から知った。そして、国立歴史民俗博物館の図録「武士とはなにか」を見ていて、もしかすると小島資料館蔵の写真も万次郎が写したものでは、ないかと思い調査に来訪されたという。谷昭佳氏の「土佐史談257号」に発表された、「中浜(ジョン)万次郎の写真活動とその周辺 江川家旧蔵(江川文庫)古写真を中心にして」によると、
万次郎は、咸臨丸で安政7年(1860)1月、日本を出航し、アメリカに渡り、サンフランシスコの写真店でアメリカの写真師について、撮影練習と薬品の調合と使用について学び、写真機と大量の薬品を購入したとされている。また、1860年6月1日付けのフレンド誌は、帰路のホノルル寄港時に万次郎と再会したデーモン牧師により「これは彼の母の姿を写そうという目的で買い入れたもので、母を写し終えたらもはや無用のものである」と、万次郎がカメラ(ダゲレロタイプカメラとしているのは、当時のカメラ全般の総称としての記述カ)を買ってきた動機を伝えている。万延元年(1860)5月、万次郎は購入した写真機とともにアメリカから帰国する。江川家手代で咸臨丸に運用方として乗船した鈴藤勇次郎の『航亜日記』の写本巻末にある大石梅嶺の付記「北米紀聞」には、江川英敏の配下の中浜万次郎、肥田浜五郎、松岡盤吉、鈴藤勇次郎らのアメリカ土産について、「万次郎ハ衣類ニ縫物スル道具(ショエーミシン)、鳴物(アツコラデアン)、写真鏡ノ道具三品ヲ持帰リ各其術ヲ伝授セリ」との記述がある。万次郎は、実際にそれらの土産品を使用して見せたことを示唆している。
写真機や、現像関係の写真材料を買って帰国した万次郎は、江川家にたびたび訪れて、江川家の人のほか来訪者を撮影した。その一枚が、この山口直邦の写真である。山口は、幕府の講武所の砲術指南役であるが、どこで、砲術を習ったか今まで不明であった。江川家と山口直邦との交流があったことから、江川から砲術を習ったものと考えられる。この写真は、小島鹿之助の父角左衛門が江戸の築土下の山口邸を訪れて、その時にもらったもので、文久3年の『小島日記』には、3月16日の条に「老人帰宅、殿様御像を写し候鏡下され床之間へきじの箱へ入れ置く、御旗本様方御老若御知行へ御引き取り苦しからず旨御触書写、老人持参、江戸の騒動実に尽しがたし」と記してる。『梧山堂雑書』には、記載がない。この写真は、ガラスに焼き付けたもので、裏面に黒い樹脂が塗られている。たった一枚しかない、大切な写真を山口の殿様は小島家に贈った。小野路村の人は、そのほとんどが殿様の顔を知らないので、この写真を見て、初めて知ったと思われる。
小島日記研究会報「おのぢ艸」第45号(2015年4月18日発行)より転載