私が三鷹の吉野泰平氏宅に新選組の書簡が所蔵されていることを知ったのは、平成六年三月二十八日に「直筆の手紙を公開」とタイトルのつけられた朝日新聞の記事によってである。吉野泰平氏の了解を得て、全文の史料紹介をさせていただくことになった。当時書簡を所蔵していた人は、吉野氏の曽祖父にあたる吉野泰三氏で、書簡は一巻に表装されている。書簡は八通あり、最後に吉野泰三氏の書で手紙の発信者と受信者についてのメモが記されている。近藤勇五郎に聞いて記したもので、明治二十二年一月と日付が書かれている。
吉野泰平氏は、泰三の長男泰之助が糟谷良循の娘を嫁にもらっている関係で、書簡を入手したのではないかと言われているが、書簡の受信者に糟谷の名はなく、宮川の名が宛人に記された書簡は、八通中七通あり、残りの一通尊兄も宮川宛と考えられる。これらの書簡は宮川家にあったもので、後に近藤勇五郎が所蔵しており、吉野泰三に贈呈したものと考えられる。
吉野泰三は、近藤勇の門人であり、三鷹の龍源寺の神文血判帳によると、
元治二年三月廿四日
野崎村
吉野 泰蔵
吉野喜十郎
とある。近藤勇は京にいたので、実際に近藤より剣の教えを乞うことはなかったと思われる。のちに、近藤勇五郎が道場を建てて剣術を教えたときは、経済的にも援助したと考えられる。吉野家は三鷹の豪農で、吉野泰三(天保十二~明治二十九)は自由民権運動を行なった活動家であった。野津田村の石坂昌孝と、よきライバルで石坂家との関係から、先年北村透谷の書簡が町田市自由民権資料綰の鶴巻孝雄氏によって吉野家より発見され話題になった。
新選組の書簡は、以下のように表装されている。
① 沖田総司 慶応 三年十一月十二日推定
② 近藤 勇 文久 三年十一月廿九日
③ 宮川信吉 (1) 慶応 二年 正月廿八日
④ 土方歳三 慶応 二年 三月廿九日推定
⑤ 佐藤彦五郎 元治 元年 八月十二日
⑥ 宮川惣兵衛 慶応 元年 十月廿六日
⑦ 大石鍬次郎 慶応 二年 八月 朔日
⑧ 宮川信吉 (2) 慶応 三年 六月廿四日
⑨ 吉野泰三 メモ 明治廿二年 一月
紹介では、わかりやすいように、編年順に並び変えた。
吉野泰三よりの系譜は、泰之助→清助→泰平(現在)となっている。本書簡の紹介に際して快く写真撮影と掲載許可をいただくことができ、厚く感謝の意を表します。
本書簡の紹介については、最終的に新選組研究家の清水隆氏の解読についてのご教示と、解説について適切な助言があり、かつ清水氏も独自に吉野泰平氏より許可をいただき、解読されていたので小島政孝と清水隆との連名にて発表する。なお、清水氏の意見により多くの人に読めるようにとの配慮から、読み下し文にあらため、一部読みやすいようにおくりがなを付した。
―新発見新選組関係書簡の紹介―
「幕末史研究」第32号(平成7年6月1日発行)より転載