羽生家の紹介
西多摩郡日の出町大久野の伊奈沢神社前に立派な薬医門と三階蔵のある屋敷が上羽生家である。
代々名主を務めており、酒造業や山林業なども営んでいた。
周辺の地名を羽生といい、西、上、中、下羽生という屋号が残っている。
屋敷の西側には、空堀を伴った石垣も残されており、数百年にわたり、この地で暮らしていたことが想像される。
明治十五年に起きた大火「大久野焼け」では、打撃を受けたが、甲武鉄道等への扱資家として成功を治めた。
なぜ羽生家に近藤勇の書簡が残されたか?
羽生家と新選組や近藤勇との接点は皆無であったが、両者を結びつける人物は佐藤彦五郎であった。そして書簡は百五十年間、羽生家の人々により代々守り継がれてきた。
慶応四年三月、鳥羽伏見の戦いに敗れた新選組は、甲府鎮撫隊として甲府城を目指した。日野宿名主・彦五郎は日野農兵隊(春日隊)を率い、自らも春日盛と名を改め参戦。しかし新政府軍は甲府城を先取、勝沼戦になるも惨敗する。
鎮撫隊の残兵を探索する新政府軍は、春日隊の隊長である彦五郎を標的とした。親類を頼り佐藤家は散り散りとなる。彦五郎四二歳、妻のぶ三八歳、末娘とも五歳は下女あさに背負わせ、小宮村の大蔵院まで逃ざんするも息つく間もなく追っ手が迫った。
さらに裏山を走り西へ。二宮村の茂平宅に辿り着くと、茂平の案内でさらに五日市在大久野村、羽生家に到着した。夜半にも拘らず同家主人は委細を聞くと、同情の後、手厚くもてなしてくれた。
羽生家の加護により彦五郎一同はここで匿われ、長逗留となった。その間、茂平の奔走で新政府軍の状況を探り知った。