富澤家について


 富澤家は今川義元の家臣だったが、今川義元が桶狭間で戦死したため、逃れて連光寺村に土着したと言われています。その後、連光寺村の名主を代々勤めました。幕末には、15代忠右衛門政恕が万延元年 (1860) に、名主を継いでいます。政恕は文久元年に日野寄場組合村の大惣代名主となりました。剣を天然理心流三代近藤周助に学び、万延元年の天然理心流の額の奉納に尽力しています。文久4年には、知行主の天野氏に従い上洛し、近藤、土方から、大歓待を受けました。また、和歌に優れ、『旅硯九重日記』という歌日記を残しています。号は松園と言いました。明治14年以降、富澤家には、明治天皇を始めとして皇族による行幸がありました。それは明治15年に連光寺村ほか9ヶ村が「御遊猟場」の指定を受けたことによります。16代政賢は、連光寺村の村長を何期も務め、「多摩聖蹟記念館」の設立に尽力しました。
【富澤家の外観】
明治天皇が行幸された建物は、現在多摩センター駅近くの多摩中央公園に移設され公開されている。
 

 

近藤勇所用鉄扇



【解説】
 富澤忠右衛門(政恕)の『旅硯九重日記』によると、文久四年二月三日夜、「画工友僊を招き旅館の主人南明と共に唐紙扇面に描かせ夜半過ぐる迄楽しミ遊ひぬ」とある。この日近藤勇が騎馬にて富澤を訪ねてきて暫く談笑したが、扇に揮毫した記事はない。おそらく京を去るときに富澤が揮毫を所望し、近藤が書いたと思われる。「勢欲飛 皇闕衛士近藤書」と記している「勢い飛ばんと欲す」は、櫻井孝三氏の研究によると頼山陽が書いたものがあるという。近藤がそれを知っていたかどうかは不明である
 

 

『旅硯九重日記』 文久4年1月1日~元治元年5月10日



【解説】
富澤忠右衛門政恕が、知行主の天野氏に従い上洛したときの日記で、新選組近藤や土方ほか新選組隊士との交遊が詳細に記されている。『旅硯九重日記』は、多摩市教育委員会で解読されたものが販売されている。