口上願書
恐れながら流祖内蔵助より私迄四代、未熟ながら撃剣匠範
罷り在り候処、当今形勢熟々心配仕り候折柄、尽忠
報国有志御募り相成、則御召しに相応じ、去二月中
愚父家族門葉等捨て置き、塾弟共十人余同道にて
上京仕り候処、去る三月中浪士一統東下致すべく旨
仰せ出され候得共、熟々洛陽模様愚考仕り候処、攘
夷は偖置き、諸藩風説天下囂然、其虚に乗じ万
一陰謀として、内乱醸し候哉も計り難くと相心得、同
意僅に拾四人、
大樹公御滞留中は滞留致し度旨相願い、則御当家様
付属 仰せ付けられ有難く存じ奉り候、豈計らん哉、去八月中恐れながら
御所妄動之一条、不肖ながら御固め仰せ付けられ、
昼夜二日甲冑纏い武門に取り有難く存じ奉り候、其後
市中昼夜見廻り、且三条木屋町奸人召し捕り方
御用仰せ付けられ候段、旁以て有難き仕合に存じ奉り候、併しながら此の儀は
今日の御奉公と相心得候、私共志意は外夷攘払
魁仕り度、依て愚身を顧みず、及ばずながら彼是聊か周
旋仕り候得共、未だ私共本懐之御奉公仕らず候、然る処に
今般格別之御新政とは申しながら、関東表新徴組御召し
抱えに相成候趣、依て我々共にも同様の御沙汰之有り、
御内意を蒙り候得共、恐れながら新徴組の御奉公とは
素より趣意も相違い仕り、御馬前に於いて寸功これ無き
内、禄位等仰せ付けられ候儀、御免願上奉り候、将又(はたまた)私野父
古稀年齢にも罷り成、殊に当節大病の由、総体
忠孝両様全く致し候事ハ賢者も処し難く況や私輩
不肖之身に取り候ては中々以て及ばざる事に御座候得共、
康安の治世処し候ては、親之膝下に蹲り居候て、孝
養仕るべき儀は素より当然にて御座候得共、当今之時勢
柄、手拱き居り候儀は心中安からざる次第にて、
皇国之御奉公は恐れながら一大変も出来候節は一方の
防禦仕り、身命を抛ち候儀は勿論之事御座候、然に
山海百里余も親子隔絶、若亦私誠忠のため
戦死を遂げ候得ば、愚父に聊か養育之御手当等、思
召しを以って召し置かれ候はば有難く存じ候、外に他念聊か御座無く候、以上
新撰組
局長
近藤 勇
文久三癸亥十月十五日
松平肥後守様
御公用衆中
【解説】
京都守護職松平肥後守様御公用衆中あての願書で、文久三年二月に召しに応じて上京したいきさつや、八月の御所騒動では二日間甲冑を着て警護したことが述べられている。禄位については新徴組と異なり、新選組は攘夷の本懐之御奉公仕らずうちは禄位等仰せ付けられ候儀は、御免願上奉り候と述べている。また近藤が誠忠の為に戦死をしたときは、愚父に聊かの養育の御手当てをいただければ、有難いと述べている。