(4) まとめ

 本稿では、乗尻と所役に関する記述をまとめることにより、その決定過程の変遷を調べた。結果をまとめると以下のようになる。
 
 ① 足汰式における庄園名の序列は現在と過去では異なる。江戸時代後期までは、12番以降は本・摂社の名前が付けられていた。馬や乗尻の袖料などを負担する馬所は、宝永年間前では氏人中が務める場合もあったが、以後は社司が務めていた。乗尻や馬所の決定は社司・氏人中の各集会で決定されており、特に倭文および正祝に関しては最高議決機関の立会参会で決定されていた。
 
 ② 足汰式と競馬会の乗尻は、現在は同じ乗尻が同じ庄園馬に乗馬しているが、江戸時代後期までは別の氏人が務めることがほとんどであった。足汰式の乗尻は毎年庄園馬がばらついていたのに対し、競馬会の乗尻は4-5の番に固定されていた。
 
 最後に、本稿をまとめるにあたり、京都文化博物館学芸員の土橋誠氏には、史料の調査・翻刻をはじめとして有益なコメントを数多く頂いた。ここに記して謝意を表したい。
 
 
 1) 須磨千頴「中世における賀茂別雷神社氏人の惣について(4)」『南山経済研究』第7巻第3号
 2) 須磨千頴「中世における賀茂別雷神社氏人の惣について(6)」『南山経済研究』第10巻第1号
 3) 賀茂別雷神社『賀茂競馬』パンフレット
 4) 本稿での「賀茂競馬」とは、五月一日および五日に賀茂の氏人によって催行される競馬のことを言う。これ以前にも賀茂社で競馬は行われているが、院の隋人が乗尻を務めた事例が殆どであり、日程も五月五日以外で、いわゆる「臨時競馬」であるため、ここでは除外している。
 5) 日本祭礼行事集成刊行会『日本祭礼行事集成』第3巻所引
 6) 注1)参照
 7) 日本競馬史編纂委員会『日本競馬史』第1巻所引
 8) 須磨千頴「中世における賀茂別雷神社氏人の惣について(2)」『南山経済研究』第6巻第3号に、明応二年(1493)拾月廿四日の賀茂社目代方正税支配定文が挙げられている。
 9) 京都府立総合資料館蔵、中大路家文書。成立は寛永二年(1625)。
 10) 源城政好「賀茂競馬会神事関係資料(一)競馬記」『賀茂文化研究』第1巻。成立は寛文四年(1664)。
 11) 児玉幸多「賀茂別雷神社の集会制度」『社会経済史学』第8巻第3号立会参会および老若寄合の項参照。
 12) 国立公文書館蔵、内閣文庫。
 13) 梅原猛「賀茂社と競馬②」『京都発見 四 丹後の鬼・カモの神』
 14) 神道大系編纂会「神道大系 神社編八 賀茂」449頁
 15) 『社記』文政三年(1830)項には足汰式・競馬会の乗尻の庄園・名が記されており、本稿で示した江戸期のものと同様の形態であった(北大路元顕氏のご教示による)。