鳥取県琴浦町河本家所蔵実録本『北野聖廟霊験記』について(一) 田中則雄

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河本家と古典籍
 鳥取県琴浦町箆津(のつ)の河本家は、国の重要文化財に指定された住宅が有名であるが、古典籍約八五〇点、四八〇〇冊
が伝存するという点でも注目すべきである。そのジャンルも文学、歴史、仏教、神道、産業、往来物、漢詩文等、極めて多様である。具体的な書目は、原豊二・山藤良治「稽古有文館(河本家)蔵古典籍目録」(1)によって知ることができる。また原豊二「稽古有文館(河本家)蔵古典籍解題」(2)には、この蔵書の特徴について考察がなされている。蔵書の収集は近世中・後期頃から始まり、幕末から明治にかけて、一二代通繕、一三代芳蔵の努力によって充実を見たものである。近年の研究成果である、原豊二「河本家の古典籍の全体像と特色-調査開始以来の歩み、あるいは『百番歌合』のこと-」(3)には、河本家の蔵書形成(どのような過程を経てこの古典籍群が蓄積されたか)に関して詳細にまとめられている。
 
実録『北野聖廟霊験記』について
 河本家に伝存する古典籍に、近世の実録写本が含まれている。その中から『北野聖廟霊験記』を取り上げる。現在把握し得ている伝本は、他に稿者架蔵本があるのみである。
 この実録の詳細については、旧稿「河本家に伝存する近世実録と読本」(4)に記したが、いま要点のみ再掲する。敵討譚であるが、虚構性が強く、実在事件に基づくものではない可能性が高い。成立年時は確定できないが、近世中期には成立していたはずである。河本家の本は近世後期頃の筆写と見られる。匡郭を印刷した用箋に大振りな文字で記されており、貸本屋が人を雇って筆写させた「仕入本」である。貸本屋で使用されていた本を、河本家が購入したか譲り受けたかによって、所有することとなった。なお表紙に、「書林/米子尾高町/佐々木城助」の印を捺した紙片が貼り付けられているが、この佐々木が販売所であったか、あるいは貸本屋を兼ねていたかなどの点は未詳。
 石見三郎左衛門という男が、お菊の父母を殺害し、さらに上田慶次郎の父をも殺害したため、お菊と慶次郎は同一の敵を狙うことになり、互いに自分にこそ討つ権利があると主張して争うが、京都所司代小笠原佐渡守が両人を媒妁して夫婦とし、協力して敵を討たせる。これ以前に両人は、それぞれ北野天満宮に日参して敵討成就を祈っていたが、この縁も天神の計らいであったと受けとめる、という話である。
 この実録は、歌舞伎、読本という他ジャンルの作に影響を与えた点でも注目すべきものである。歌舞伎『けいせい会稽山(ゆきみるやま)』(近松徳三作、寛政一一年(一七九九)初演)は、『北野聖廟霊験記』からお菊・慶次郎の敵討の筋を取り入れた上で脚色を施した。即ちこの戯曲では、明智光秀の弟左馬五郎光興(さまごろうみつおき)という者が、兄を討った真柴久吉(ましばひさよし)(羽柴秀吉)とその一族を滅して無念を晴らそうと企てた、という筋が新たに組み入れられている。作者は、『北野聖廟霊験記』の敵討譚を元にしながら、明智光秀方の豊臣秀吉への報復という話にまで構想を膨らませたのである。
 また、読本『北野霊験二葉の梅』(栗杖亭鬼卵(りつじょうていきらん)作、文化一〇年(一八一三)刊)は、その筋や人物の多くを『北野聖廟霊験記』から取り入れ、幾つかの改変を加えながら、読本という別の様式の小説に作り直したものである。人物造形や全編の構成など、読本独自の形への改変が認められる。このことの詳細についても、前掲旧稿に記したので、参照されたい。
 
 〔注〕
 (1)『米子工業高等専門学校研究報告』三七号(二〇〇一年一二月)
 (2)『米子工業高等専門学校研究報告』三九号(二〇〇三年一二月)
 (3)『河本家稽古有文館シンポジウムー古典籍発見の軌跡とその展望-』(島根大学附属図書館、二〇一七年三月)
 (4)『淞雲』一八号(二〇一六年二月)
 
 以下、底本の書誌、翻刻にあたっての凡例を掲げる。