北野聖廟霊験記第弐

原本の画像を見る


北野聖廟霊験記第弐
 目録
一 北川新右衞門水公事を巧む事
  幷伜新十郎姫路の家中に成事
一 辻風伊助おつやを島原へ売事
  幷伊助逐電の事(一オ)白紙(一ウ)
 
北野聖廟霊顕記第弐
 
 北川新右衞門水公事を巧む事
 幷伜新十郎姫路の家中に成事
 
爰に大和国梅ヶ谷といふ所に北川新右衞門といふ郷百性あり。田地も数多もちて所の名主たりしゆへ、近郷にかくれなし。然るに大和は水すくなく、年々旱魃にて(二オ)田畑を損じ難義しけるゆへ、何とぞ河内の水筋を此所へ付なば、近郷の扶けと成べきなれども、非道の事などはいかゞと思へども、年々の不作聞に絶(たへ)かねて、計る事を工夫し、我家の普請に事よせ山を買とり、夫より河内の水すじへ地を掘て、人知れず土砂を敷、大和領分迄(二ウ)水筋の用をこしらへ置て、扨梅が谷に古き小祠(ほこら)あり。何の神をいわひ祭りしとも知れざるゆへ、古き石のかけたるを額の様にして、額面に水守明神と彫(ほり)つけ地の底にうづみ置。是をいひ立にして、河内へ水公事を仕かけ、もし公事に負なば大和を畑年貢に願ふべしとの工みなりける。此事当分(三オ)申出しては成就せまじとて、年を経て自然と事の発する仕やう有べしと、人には曾(かつ)てかたらず、自身胸にふかくたゝみこんで居られしが、おもひもよらぬ病になやみ、今ははや全快有まじと思ひしかば、一子新十郎を呼で蜜(ひそか)に申されけるは、「我年頃当国近郷旱魃に痛む事をなげき、是を(三ウ)すくわんと、斯のごとく企ていたし置たり。今四五年致しなば、事をおこして是非ともに水すじをば大和へ付るか、左もなき時は年貢を畑年貢に願ふべしと、二ツ一ツの公事を仕かけ置たれば、是非一ツは成就すべし。此事叶ひなば、当国近郷は浮み上らん。しかれば諸人の為、且は我家も富栄ん。子孫も(四オ)繁昌すべしと、心を尽して致し置しに、かくやまひにかゝりて、もはや余命も旦夕にあり。死する命はおしからねども、此事空しくうづもれて我心ざしの朽なん事をうらむ。汝に今知らせ置間、我志しをば継で此事成就すべし。其仕様は、古き小祠(ほこら)の辺りに家を建るといひ立にして、地中を掘て(四ウ)見よ。下に石の額あり。水守明神と彫印(ほりしる)す。扨は此小祠は水守の神也と披露して、いづれか水ぞと地を掘て見よ。下に砂(じや)りを敷てあり。夫を段々につたひ行ば、河内の水すじへ出べし。此事を言立にして河内へ水公事を仕かけ、落着せずば、大和は畑年貢に願ふべし」と委細言ふくめて、手帳を出して(五オ)水筋、水守の額のあり所をつぶさに書印(かきしる)し有を、一子新十郎に渡し、其身は次第に病衰して程なく相果ける。然るに新十郎は父とは違ひ、幼少より遊藝を好み、南都に行て今春家(こんぱるけ)の門弟となりて明暮能を稽古して居たりしが、父存命の時は、家業にうとしとだん/\に異見せしかども、(五ウ)抜(ぬけ)々て南都へ通ひけるが、此度末期にくれ/゛\と家の栄へを遺言せしに、其のせつは聞入しごとく成しが、忌中も明(あく)と其儘南都へかけ出し、能の稽古修行して、宿へ帰らず。父が遺言もわすれはて、一向能にうき身をやつして、梅ヶ谷へは月に一両度ならでは帰らず。弟新吉郎内にありて家業をつとめ(六オ)けれども、兄新十郎は多くの金銀を遊藝についやしけるゆへ、一類中異見すれども聞ず。田畑も売払身体も次第に薄くなりゆくにしたがひ、親類中兎角兄の新十郎にては此家立がたくと相談して、新十郎を追出し、弟今年十三才に成けるゆへ、家督を継けれども、若輩なれば、親類中より後見し(六ウ)て家職を納めける。兄新十郎は一家中に追はなされ、よる方もなく今春家に奉公分に有付、年を経て暇をとり、京都へのぼり知るべをたのみ、二条河原町辺に能指南をして居たりける。時に播州姫路本多家の御家中有川庄左衞門といふ武士、京都遊がくの為三条薪屋町に座しきをかりて逗留して(七オ)居られしが、北川新十郎が近辺成をもつて呼よせて閑暇のなぐさみの相手に致しけるが、元より新十郎能藝鍛錬のものなれば、万事身の取廻しもよく、庄左衞門の心に叶ひ、殊に姫路の太守御能を好ませられて毎日御興行ありて御たのしみなされけるゆへ、庄左衞門新十郎に申は、「主人事御能を好(すか)(七ウ)せられけれども、又然るべき藝者もなし。貴殿を御勧め申さば召抱へらるべし。奉公致さるべくや」と申されければ、北川聞て、「私元来百性の家に生れ候得ば、争(いかで)か武家の間に合申義は候まじ」と申せば、庄左衞門、「いや左にあらず。貴殿の藝術をもつて御奉公召るゝに、なんぞ間に合ざる事の候べき。貴殿さへ得心あらば、直様(すぐさま)殿へ(八オ)申上べし」といへば、新十郎大きに悦び、「兎も角も能きやうに御計らひ頼奉る」と申によつて、国便りの文通に、我懇意に致す御近習へ右の段書したゝめ遣わし、「折をもつて御前へ披露いたし給はれ」と申遣わしけるゆへ、御傍用人(そばようにん)御近習のともがら、常々御能の砌りは役にさゝれ素人藝を勤めけれども、師を取て(八ウ)ならわざれば万事覚束なく、幸ひの事を申越れしとて、早速太守の御聞に達しける。太守大きに御悦びあつて、其道に預るべき者を兼て抱へ度思し召るゝ折からなれば、召かゝゆべきよし仰出され、其段京都へ申遣わし、知行百石にて、有川庄左衞門取持にて、則ち同道有て姫路へ帰国せんと支度せら(九オ)れしに、新十郎いまだ妻なくて、近所の娘とふと馴そめ、すでに懐妊致し居けるゆへ、此度姫路へ召つれんと言けれ共、娘の母二条河原町に住けるが、只一人の娘なれば、はる/゛\田舎へ遣わす事を嫌らひて、色々にすゝめけれども得心せず。娘も詮方なく此よし新十郎へ告ければ、北川聞て、「行末近き母(九ウ)なれば、見捨ん事も不孝なり。跡に残りて母の終りを見届けて、後に迎へ取べし。胎内の子男子ならばさつそくに知らすべし。女子ならば其方心まかせに如何様とも計らふべし。此方心はかわる事なし」とて、白菊といふ名香に金子百両そへて彼女にあたへ、新十郎は有川に誘(いざな)われ播州さして(十オ)下りける。
 
 辻風伊助おつやを島原へ売事
 幷伊助ちくでんの事
 
斯て娘は跡に残りてかれこれとするうちに、はや臨月に至りて産の気付けるが、甚だ難産にて、三日三夜脳(なや)まして、漸々と生落しけれども、跡(あと)ざん下(お)りかねて、母は(十ウ)終に空しく成にける。又生れし子は女子にて無事に在けれども、母なければ乳母を置てそだて、名をばおつやと付て、祖母の養育にて生立(おいたて)ける。新十郎方へも右の段申遣しける。程なく祖母も過行て、おつやは母の妹有けるが、此方へ引とり養育致しける。光陰矢のごとく年月押移り、おつやも早十三才に成けるが、伯母壱(十一オ)人姪一人なれば、至極大切にそだてけるが、美目容(みめかたち)麗しく、都育(そだち)の花車風流いわん方なきむまれ付ゆへ、人の目をおどろかしける。爰にまた近き辺りに歩行荷(かちに)を持て渡世とする辻風の伊助といふ者、博奕を好み人を姦衒佞言貧膳(かたりねだりとる)など、大の悪者ありけるが、此伊助つら/\とおもひけるは、女むすめをだまし(十一ウ)島原へ売ならば、よき元手を得る也と思ひ、邪智をめぐらし、彼娘が伯母の方へ行て、「私昨日三条の蹴上より播州の侍衆の小揚(こあげ)にやとわれ、荷物をもって四条大宮の旅宿へ持付しが、旅宿に付と、彼さむらいは余程大身と見へて、供廻りも五六人召つれて有しが、人歩のわたくしどもへ、「大義であつた。酒にても呑べし」と申(十ニオ)されて酒を下され、やすんで居りましたれば、彼御さむらいの申されまするは、「其方は当地の生れか、他国の者か」と御たづねゆへ、「わたくしは当所の生れにて御座候」と申たれば、「所はいづくに住ぞ」と御たづね有ゆへ、「二条川原町に裏だなをかつて住居仕る」と申ければ、「久しく其所にすむか、又ちかごろ宅替(たくがへ)して行たるか」との(十ニウ)御たづねゆへ、「わたくしは幼少より彼所にくらして、今年卅八才まで所をかへずくらし申候」とこたへしかば、かの侍首をかたむけてしばらく思案して、「しからば其方に少々(ちと)尋ね度事有」とて、奥座敷へ我をまねき給ふゆへ、草鞋がけながら庭より裏へ廻りまして、椽側に腰かけて居たれば、彼侍申さるゝは、「我十三歳已前子細有て(十三オ)京都に住居せしが、其近辺の女とふと馴染に成、既に懐胎せし処に、国元へ参らねばならぬ事ありて帰国致すに付、女も同道いたすべくと申けれども、女の母年老て壱人の娘田舎へ遣わす事を大きになげきしより、則ち女を母にあづけ置て下りしに、其後程なく娘を生落したるよし申越て、母は産後(十三ウ)に空しく成しよし聞て、不便の事におもひてたづね度思へども、主君に仕へる身なれば、心にまかせず。自分の用事にいとまも願われず、ぜひなくいたづらに年月を送りたり。年よるに付て思ひ出すあいだ、其方二条川原町に年久しく住といへば、もしや心当りはなきや」とたづね給ふゆへ、私思案して見るに、(十四オ)其もとの事思ひ出し、たしかに十三年已(い)ぜん、妹子の生給ひしおつや女郎、父御は播州の武士とやら。其せつ産後に母御は御果なされ、其元の方へ引取給ふうわさをふと思ひ出して、右の御さむらいに申は、「慥(たしか)にそれとは存じ当り御座候。当年十三才にて、今手ならひにいて居られます」と申たれば、「夫は嬉しい事(十四ウ)なり。呼よせて逢たくおもへども、此度は殿の御用に付傍輩衆も同道なれば、左様の事も致しがたし。明後日発足すれば、其ほうの働きにて明日つれて来て一目われに見せてくれよ」と御頼みなり。遣わさるべきや」と誠らしく偽りける。伯母は是を聞てまこと也と思ひ、「それは何にてもあの子の出世。成程遣わし(十五オ)申べし」とて、「何ぶん然るべく頼み入」と申せば、伊助は仕すましたりと心悦び、「然らば明日同道致すべし」とて、「ずいぶんこしらへ待給へ」と約束して、我家へ帰り、直(すぐ)に島原の三文字やへ行て亭主に逢て、「私は二条川原町に住居致す者にて御座候。壱人の母大病にて十死一生にて御座候所、御医者方人参を用(十五ウ)申さねば快気成がたしと仰られ候へ共、身貧なる私、才覚も出来がたく、子を捨て成とも親を助け度存候に付、一人の娘御座候が、親の口からほめるは如何に候へども、十人にも勝れし生れ付ゆへ、一しほ不便に候へども、是を其元さまへ御かゝへ下され、金子借用仕候て、母の病気たすけ度候」とまことしやかに申ければ、三文字(十六オ)屋亭主も元より商売の事なれば、「成ほど抱へ申べし。去ながら見ぬあきなひはならぬものなり。つれて来て見てのうへ、いかやうとも相談すべし」といふ。伊助、「然らば明日召つれ参るべし。しかしいまだよそ外(ほか)へ出たる事なきふところ子にて候へば、かやうの所へ奉公に遣わすと申さばいやがり(十六ウ)申べし。つれて参り候はゞ、わたくしを馴染のやうに仰られ、娘に逢たがる人追つけ来るはづなり、待て居よと御すかしなされ御とめ下さるべし」と申ければ、「いかにも手前の気に入し奉公人ならば、いかやうにしてなりともかゝゆべし」と相談しめし合せ、伊助は我家へ帰り、家内諸道具少々有けるを道具や(十七オ)へ売はらひ、内を片づけて、扨翌日彼伯母の方へ行、「只今右の所へ娘子を同道いたすべし」と申ければ、伯母悦びて、髪うつくしう結て衣裳も着がへさせ、母のゆづりのしら菊の名香を守り袋へいれ首にかけさせ、「是を御目にかけなば、いよ/\父御がそなたを我子と慥(たしか)に思し召、出世のたねと成事」と申聞せ、(十七ウ)身ごしらへ出来しかば、「御世話ながら御さむらい様へ能(よき)やうに御申下さるべし」と頼みて、娘おつやを伊助に渡しける。辻風伊助は急ぎ三文字やへ連行ければ、「是は/\能(よく)こそ見へたり」と、亭主はきのふ申合せし事なれば、百年もなじみしやうに挨拶して、娘おつやを見るに、中々器量勝れければ、是を手入致しなば、あつぱれ(十八オ)此里の太夫職の頭とも成べき生れ付なれば、商売がらにて能(よく)見てとり、飛たつやうに思ひて、「先伊助殿喰(めし)にても参れよ」と酒など出してもてなし、「あの子には逢たがる人が追付見へるべし」と奥へやり、跡にて伊助と相談し、工界(くがい)十年切て金子五十両渡しければ、伊助受取て、「外(そと)見ずのおぼこ成ものにて候。御心(十八ウ)そへ下さるべし」と空なきして、金子懐中して何国(いづく)ともなくちくでんしけるとかや。(十九オ)