北野聖廟霊顕記第三

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北野聖廟霊顕記第三
 目録
一 娘おつや傾城陸奥と成事
  幷岡本三木之進島原へ通ふ事
一 傾城陸奥請出さるゝ事
  幷浅山新五郎諫死之事(一オ)白紙(一ウ)
 
北野聖廟霊験記第三
 
 娘おつや傾城陸奥と成事
 幷岡本三木之進島原に通ふ事
 
かくておつやは只壱人奥に待居たりしが、父うへも来り給わず。まてども/\何のおとづれもせず。常に見なれぬはでなる女中立かわり入かわり娘(ニオ)のそばに来て、なじみの出来るやうにいろ/\のはなしを仕かけけれ共、おつやは何のいらへもなく、早日もくれに及びしかば、「わたくしは帰りたし。伊助殿は何方に御座候」といふに、内の女房が来りて、「そなた事は伊助どのより此方へ奉公にかゝへたり。よつて帰す事はならず。傍輩の女郎達とつい松にてもとりて(ニウ)なぐさみ給へ」と、それじやの女房なれば、ことば和らかにすかしけるにぞ、おつや始めて聞、大きになげき、扨は伊助は伯母をだまして我を此所へ売りしと思ひふし、じつと泣悲しみ、伯母もさぞやたづねさまよひ給わんと、食事もせずなき居たり。不便なりける次第なり。爰におゐて三文字屋夫婦、扨は伊助めが勾引(かどわかし)て売(三オ)けるとすいりやうしけれども、大金を出しける大事の奉公人なれば、友ほうばいに申ふくめ、ずいぶん機嫌をとらせ、外(そと)へとては一寸も出さず日数重るにつけて、おのづから其気にうつりなじみもかさなりけるゆへ、夫婦も大きに悦び、諸げいをならわせ手入せしかば、後には三文字やの陸奥とて、此廓里(さと)の名取の太夫職(三ウ)と成にけり。扨おつやの伯母は伊助にたばかられしとは夢にも知らず、日ぐれまで待ども帰らぬゆへ、伊助方へゆきて見れば、門はしめてあり。近所にてとへば、「今朝出られて今に帰らず」といふゆへ是非なく、夜に入ども帰らず。夜明てあまり気遣ひさに、家ぬしへ行尋ねしに、家主申は、「ひとり身の者ゆへ、外にとまる(四オ)用事あらば此方へ届るはづ也。ふしぎ成事。何とも合点ゆかず」と、伊助が所へ行て戸をこぢ明て見れば、家内諸道具残らず売はらひしと見へて、鍋釜までもなし。扨は出奔せしとて、方々さがせども知れず。伯母は大事の姪を勾引(かどは)かされ、狂気のごとくはしり廻り尋ぬれども知れず。只打ふしてなくより(四ウ)外はなく、余りに心をいためて、終に空しく成にける。斯て年月押うつり、おつやは器量諸人に勝れ諸藝にも達し、今は島原にて三文字やの陸奥といへば、此里にて隠れなき全盛、是にならぶ太夫もなく、多くの客有が中に、爰に又柳原中納言様の御近習を勤るさむらいに岡本三木之進といふて、(五オ)元は江州水口の家中の末子成しが、風流を好み、堂上方に出て奉公しけるが、茶の湯和歌連俳香道はな結び、遊藝に達したる優男(やさおとこ)成しが、ふと島原に通ひ、陸奥になれ初て、わりなく契りてける。三木之進が心ざしの一ト方ならぬゆへに、陸奥も末かけて、勤めをはなれて、たがひに替るなかわらじと契りしが、すべて色(五ウ)里のならひ、通へば思はず金銀も入ならひ。元来わづかの録にて公家奉公の身なれば、水口の親もとへいろ/\と偽りをいひやりて金銀を乞請(こひうけ)しゆへ、親元の首尾も悪敷、堂上の奉公も成がたく、いかゞせんと気をいためけるが、陸奥にかたり、何国(いづく)へも行て身を立んと、暇乞の為に来りて、しか/゛\のよししみ/゛\と咄し(六オ)ければ、陸奥も深ふなじみし人の事なれば、外(ほか)へやりては逢ふ事も叶わじと思ひ、少しの金子三木之進にわたしけるゆへ、三木之進も此金にて懇意成人を頼みて、朱雀近辺にて裏店をかりて、名を源六とあらため、扇子団(あふぎうちわ)の画などをかきて日をくらし、又夜に入ければ島原に来り、陸奥に逢(六ウ)んと余所ながら顔見合せ、夫を楽しみにして月日を送り、又折あれば引ふねが情に首尾して逢ふ事もあれば、つもる物語にうきをたのしみくらしけるが、人の心ほどうたがふ物はあらし、彼陸奥が方より源六方へ折々文など出し、客のかへりし跡をば知らせけるゆへ、源六も陸奥が情わすれがたく通ひけるが、(七オ)始めのほどは逢ふ事間違はざりしが、ちがひ安き世のならひ、かゝる全盛の陸奥なれども、勤めする身は親方の手前を思ひ、やくそくの日も折々には違ひけるゆへ、源六方へ文にてことわりを申遣わせしか共、源六は心をうたがひ、是迄約束の日の違ふも、定めてかれに間夫の出来たるに違ひなし。また此文も(七ウ)我心のうたがひをやめさせん為なり。にくし/\と思へども、我なんじうの時かれが手より少々のかねをかりて、夫より我今迄かくは世わたりをする。是を思へば、恨あれ共又一たんの情あれば、此上は陸奥が事を思ひ切、わが渡世をつとめ、水口の親もとへ出世のみやげに親の勘気を免(ゆる)されるが、是又先祖への(八オ)孝行なりと思ひ、其後は島原へもゆかず、又陸奥が方へも音づれもせず、所をかへて伏見に住居致しける。
 傾城陸奥受出さるゝ事
 幷浅山新五郎諫死之事
 
去程に陸奥は文を出せども源六の行方知れず、又逢ふ事もなかり(八ウ)しゆへ、明くれ此事をおもひわづらひけるが、去物日々に疎しとやらにて、源六が事も少しはわすれ、病気も程なく全快致しけるが、已前にかわらぬ全盛にて、方々より身うけの相談ある中にも、此頃京都の御所司代戸田山城守殿此陸奥にふかくおもわれ、大金を出し請出されける。陸奥は心に(九オ)すゝまねども、勤めする身は是非もなく、終に身うけをせられけるが、彼源六の行方知れざるより今年二年に及びけるといへども、折々はおもひ出して、此度戸田殿に請出されしを源六に聞へては我いひし事偽りに成けるゆへ、此事を又おもひこがれけるが、戸田殿は或夜陸奥を招き申され(九ウ)けるは、「其方は里の苦しみをのがれ我妾(せう)としてゟ此かた、一夜も我心にまかせず、何ゆへ涙を袖にひたせるぞや」とたづね給へば、陸奥も始めの程はいわざりしが、今は心もせぐるしく、なみだを押へて言けるやうは、「我身くるわに住る其内は、金に身をもまかせても誠の心はこがねにまかせず。浪枕のよする数々多き(十オ)中に、ふと我身の行末を頼みし人あり。此人に其後は逢ふ事も叶わず、月日を送る其うちも、逢瀬定めぬ客たちに契りし事どもゝ侍りしかども、今かく君の妾(おもひもの)となりては、貞女両夫にまみへずとやらん申ことはりにて、御心にはしたがひ奉らず候。何とぞ御情をもつて」と言も果さず、戸田殿は気色かわ(り)(十ウ)て刀に手をかけ切てすてんず眼色成を、此席に居合す近習浅山新五郎此体を見るより、後より君を抱とめ諫めけるは、「君御立腹の段御もつともなれども、今日は御先祖の御命日。殊に御国元には猟どめにて御座候程の日。此所を聞し召分させられ、今宵子の刻を過なば御先祖の御命日も相済候。(十一オ)其上にていかやうとも思し召に遊ばされなば、然るべきかと奉存候」と諫めけるこそ才智なり。戸田殿にも此言葉尤と思し召れ、陸奥を離れ座しきへ入置、酒盛を致され、子の刻を今や遅しと待居給ふ。陸奥は座敷にとらはれと成て、子の刻過なば我命は消へ失(うせ)なんと嘆き居るこそ哀れなり。(十一ウ)元源六が事よりかくのごとく成しを、源六は夢にもしらず。陸奥が心のほどこそはかなけれ。其夜もはや亥の刻にも成しが、不思議や、座しきの戸を小声にてたゝく者あり。陸奥も立よりて答へければ、「浅山新五郎なり。早く此戸を明られよ。其もとの命を助け申なり」とせわしく言けるゆへ、陸奥も急ぎ雨戸を(十ニオ)明ければ、黒装束にてしのび入、「其方此所に居ては命あやふし。早く立さるべし」とて、陸奥の袖へ金子三十両いれて、泉裁(せんざい)につれ行、しのび梯子より高塀越しに、「それ/\そこを左りへ取て行ば、定めて往来の人有べし。伏見へさして落らるべし」と、いと念ごろに申聞せ、はし子ゟおろしける。陸奥も浅山が情を(十ニウ)かんじて足も立ず。「かたじけなき御心ざし」といふもおわらず、浅山は、「はやく落らるべし。此所にうろ/\してはあしかりなん」とて、はしごを取てもとの座敷に行て、腹十文字に切て死ゝたりけり。あわれ成ける次第なり。かくて戸田山城守殿は、子の刻も過けるゆへ切て捨んと、近習を(十三オ)召連給ひ座敷に行給ひけるが、座敷に陸奥は居ずして、黒装束を着たるものうつぶしに臥居たるゆへ、大に驚き、近習此体をみるより、立よつて面体を見るに、浅山新五郎なりしが、腹十文字に切て左りの手に一札をにぎり居けるゆへ、近習此おもむきを申上ければ、戸田どの一札をよみ上させ(十三ウ)給ふ。其文に曰く、
 
  乍恐奉願上候口上書(おそれながらねがひあげたてまつりこうぜうがき)
 一私義先刻御諫言奉申上候は、陸奥を助命仕度心底にて
  御座候。此義は、陸奥を殺害被遊候はゞ、末世に君の
  御名をけがし、御先祖へも御不孝之義にも相成可申か
  と奉存候。其例なきにしもあらず。伊達陸奥守は、(十
  四オ)高尾を害してより、後世にいたり候ても其取沙
  汰高く御座候。是色に迷ふがゆへに君子其明智をうし
  なふ。私儀身不肖に御座候得共、主君の悪名高く相成
  候時は臣たる道に背き候間、何卒陸奥の事思召切被下
  候はゞ生前死後之本望大慶是に不過(すぎず)奉存候(十四ウ)
  上、浮世之暇申うけ自害に及び候。何卒陸奥を助命被
  成下候はゞ、難有可奉存(ありがたくぞんじたてまつるべく)候。恐惶謹言。
  月日   浅山新五郎判
 戸田山城守様(十五オ)
 
とぞ。近習よみ終りければ、戸田殿大に感涙ありて、浅山が死がいをかたづけさせ、其後は陸奥が事を思ひ切れけるとかや。扨陸奥は浅山がなさけによつて危ふき命を助けられ、伏見をさして落行けるが、女の足の事なれば道はかどらず、やう/\に野にかゝりけるが、人の通ひもあらばこそ、何とぞ夜あけまで我身を(十五ウ)隠し度と思ひ、あたり成辻堂の内へかくれ、夜の明るをば待居たりける。(十六オ)