北野聖廟霊験記第四

原本の画像を見る


北野聖廟霊験記第四
 目録
一 傾城陸奥辻堂に隠るゝ事
  幷三木之進陸奥を連て欠落之事
一 北川新十郎入湯之事
  幷陸奥父親に廻り逢ふ事(一オ)白紙(一ウ)
 
北野聖廟霊験記第四
 
 傾城陸奥辻堂に隠るゝ事
 幷三木之進陸奥を連て欠落之事
 
斯て先年別れし源六、今は伏見にて水口屋源六といふて扇子(あふぎ)うちわの絵を渡世とすれども、未だ運の来らざるか、いと貧しくくらし(二オ)けるが、今朝は先祖の命日なればとて、遠寺の鐘の明六ツを告る頃より起出て、彼辻堂へ香花をば捧んと詣ふでけるが、陸奥が思ひとゞひてや、此辻堂にむかひ合掌しける折しも、女のかげ見へければ、源六ふしぎにおもひて、「いか成人や堂の内にこもられけるぞ」と問けるゆへに、陸奥は源六と見るより、嬉し涙に(二ウ)物をもいわず打ふして居たりける。源六は合点ゆかず、「何ゆへそちはかゝる所に居るぞ」とたずねける。陸奥申けるは、「咄したき子細は長き事也。其上此所に居てはあしきゆへ、人目にかゝらぬうちに身を隠し、其上物がたり申べし」と言けるゆへ、源六は陸奥もろとも我家をさして帰りける。陸奥源六に向ひて涙ながら(三オ)にかたりけるは、「過にしころ君に別れし其後には、ぶら/\とわづらひ、せめて文成ともとおもひて便りをすれども、行方しれざれば是非もなく、思ひ直し、我命あらば又逢(あふ)事もあらんかと、月日を送る其うちに、いか成縁にてや、戸田様に受いだされしが、里にありし内は夫(つま)と定めぬ世のならひなれば、多くのきやくに(三ウ)身をまかせけれども、戸田殿の妾(せう)となりてはおまへに契りし言の葉すまぬゆへ、一夜も我身をまかせず有しが、我を手討にせんと怒り給ふ。其座に有合浅山新五郎と申侍君を諫めていふは、「今宵子の刻過までは先祖の御命日も相済候ゆへ、子の刻すぎるまでは命助け置せらるべし。子の刻過なばいかやう共(四オ)遊ばされ」との諫言にて、我身は子の刻過まで座しきにとらわれ居るに、浅山新五郎と申士、夜中にしのびこんで、我身を塀越に落し、「早く伏見へさして落行べし」とて、金子三十両下されしが、夕べの事ゆへに、もし又追手来りなばいかゞせん」とあわてける。源六は始終を聞て、「夫ほど迄われをおもふ心底ならば、(四ウ)此所を立退べし。紀州熊野湯の峯に少しの知るべあれば、是へさして行べし」とて、我内の物をそこ/\にかたづけ、其夜に大坂をさして落にけるが、此所は繁花の地なれば一時も足はとめがたしとて、日をへだてゝ熊野本宮湯の峯に着たり。此処は辺鄙にして人の知るべき所ならねば、源六夫婦も(五オ)やう/\気も落付、知音のものをたづねんと、そこよ爰よと見廻りしが、都に見なれぬ気色にて、びやう/\たる清川、嶽々たる岸石、山又山をかさねし風景、いづれの工みが此青岩のかたちを削りなせしか、水また水をながす面(おもて)は誰が家にか此碧単(潭)の色を染出すやと、古人のことばを口唫(すさ)びて、遠近のたつ木(五ウ)も知らぬ山中に、おぼつかなくも呼子鳥、声すごき折々は、伐木(ばつぼく)てう/\として山更に幽(かす)かなりとは、かゝる所をやいひつべし。法性峯聳て上求菩提を顕し、無明谷深くして下化(げけ)衆生を表(ひやう)し金輪際に及ぶとは、かくのごとき気色をいふならんと、夫婦は此間のうきをわすれて余念なく眺望せり。抑此湯の峯と申(六オ)は、熊野本宮に二里隔て温湯涌出せり。薬師如来方便の湯なりといひつとふ。男湯女湯留湯(とめゆ)とて、湯つぼ三所ありて、薬師如来の本堂建立し霊像を安置せり。渓河の流声山雲の詠(なが)め、扶桑南極の峯森(しん)々として物すごく、夜もすがら谷に諸鳥の声遠近に聞へければ、一しほさびしき所なり。むかし小栗判官(六ウ)兼氏、横山が為に毒害せられ、悪瘡をやみ身体とろけくさる。妻女照天(てるて)の姫介抱して此湯の峯に至り、藤沢遊行上人此湯を汲てかけさせ給へば、忽ち全快有しとて、遠近に此湯の奇特を言て絶ず。入湯の為諸人入込、旅館の宿り数多なり。源六夫婦は知音の人に廻り合、然々のよしを語り頼みければ、快(こゝろよく)うけ合、小家をかりて夫婦を居らしめ、何のわざも知らぬゆへ、入湯の衆中の小用を聞、又は小遣ひ飛脚などを渡世として年月を重ねしに、女子一人を出生して、名お菊とつけて、夫婦が中のひとり子、末のたのしみにてうあいして育てける。此時しも播州北川新十郎は、先年能藝をもつて姫路の城主本(七ウ)多家へ百石にて召出されける処に、御意に叶ひ段々立身して、此節は三百石まで御取立、能藝は格別御近習に仰付られ、又家中の若侍衆能の門弟と成、余情(よせい)多く、甚だ身上福祐に成けるが、元来久しく京都に住居して物和らかに人に高ぶらず、よつて諸人の心に叶ひ、新参の藝者なれども、一家中(八オ)皆々是にしたしみける。若き時分能げい古のせつ中返りを仕損じ首の骨を打けるが、若き時は血気にてさして苦にもならざりしが、年寄にしたがひ、寒暑のせつは痛(いたみ)けるゆへ、太守さまへ御ねがひ申上て、入湯仕度だん申上しかば、御免をかふむり、二廻りの御いとま玉はりける。(八ウ)
 
 北川新十郎入湯之事
 幷陸奥父親に廻り合事
 
斯て北川新十郎は熊野本宮の湯の峯に来り入湯して居られしが、つれ/゛\成まゝに、宿の亭主をば招きはなし相手にしてくらしける。亭主申けるは、「京都より夫婦づれにて当所に来り世帯致し居申もの御坐候が、入湯の御客がたの小づかひ(九オ)又は飛脚などいたして渡世と致し居申候。いかさまゆへ有者と相見へ候て、物事いやしからず、都名所咄しなどよくぃたし候。召よせて御つれ/゛\の御伽に被成候べし」と申ければ、新十郎聞て、「それは幸ひの人也。よびてたべ」と申されければ、亭主使ひを遣わしけるに、やがて参上しければ、新十郎、「其方は京都出生のよし。身どもも(九ウ)むかし京都に住せし事もあり。当時仕官の身なれば、打たへて上方のうわさも聞ず。かわりし事もなかりしや」と、互に京に住せし事なれば、咄しも合て、毎日/\呼寄酒飯のふるまひ相応のちん銭とらせ、下人同ぜんに宿に召置れける。新十郎入湯二廻りの日限も近付ければ、湯も相応していたみも和らぎけるゆへに、(十オ)今三廻りの御いとまを願ひければ、北川の事なれば、願ひ叶ひ、又三廻り入湯しけるゆへ、源六はよき伽成とおもひ、ひたすら咄しの次手(ついで)に茶の湯香道のはなしとなりて、元より源六は得たりし道なれば、つぶさに咄し、だん/\と新十郎が心に叶ひ、「我も香の道は好めり。今一人友あらば一会をもよふしたし」と(十ウ)有ければ、源六聞て、「只今入湯の御客がた碁将棋又は双六かるたのなぐさみなどなさるゝ御方は御座候得ども、香などをなさるゝ御方は御座なく候。当所は山中の事なれば、居住の人々も香などもてあそぶべき大は見へ申さず候。私妻にて候もの、むかしは此道をすこしはたしなみ候が、只今にてはいかゞ有べくや」とはなしければ、(十一オ)新十郎聞て、「それは珍重之事。かゝる田舎の片すみに住ながら、さすがは京出の人ほど有て、妻女までも香道を知り給ふ事。定めてよし有人のはてなるべし。是へ伴ひ来られよ。対面致さん」と申さるれば、源六はかしこまり、やがて我家へ帰り女房に、「入湯の御客に香の一会をもよふし給ふ。其方事を咄したれば、(十一ウ)幸ひの事也。つれて来れとの仰なり。いざや参らん」と申ければ、おつや笑ふて、「久しく手に取し事もなきに、めづらしき御所望。世帯のせわしきに身もかまわず。此すがたにては参りがたし」とて、かみをはらけ衣裳を着がへて、夫婦打つれ御客のもとへ至りければ、新十郎此女房を見るに、年のころ二十四五と見へて、つまはづれいやしからず、(十ニオ)いかさまよし有体に見へける。かゝる人目まれなる深山に桜の咲たる心地ぞしける。北川あやしみ思ひながら、「扨々其元は珍らしき女子にて、香の道を知らるゝよし。何ゟもつてうれしく思ふなり。いざ一会もよふさん」といへば、おつや申は、「私は若き時分京にてさる方に勤めしゆへ、少しは覚へ候得ども、只今かゝる身になり(十二ウ)候へば、大かたはわすれ候はん。去ながら御つれ/゛\の御なぐさみとも相成候はゞ、一会御相手に相成申べし」といふて、座に直り、初一会は三葉一花の香にて、新十郎勝なり。其次に競馬香、其つぎは名所香にて有けるが、是は両度ながらおつや勝たり。其後呉越香にて銘々一種の香を出してつぎけるに、又おつや勝に成。新十郎(十三オ)大きにあやしみ驚きながら、おの/\興じて、其日は会終りける。源六夫婦も宿に帰りける。北川はねやに入てねもやらず、心に思ふは、「世にあやしき事もあるものかな」と、ゆびを折て年月をかぞへ見れば、心当りも有り。いかにしても心すまず、明日早々源六夫婦をよびにやられ、辺りの人をはらひ、三人三ツかなわに(十三ウ)成て、新十郎申は、「外の子細にてはなし。きのふ呉越香にそなたのつがれしは、細川家の重宝白菊といふ名高き名香也。此香は外に所持する人はなきものなり。いかゞして其元は所持せられし」とたづねければ、おつや面をあからめ、「すこしわけありてむかしよりたしなみ居候」と笞へしかば、新十郎は(十四オ)かさねて、「かならず隠し給ふな。其名香を包みしは、白綾にて乱れ萩の盛り成を織て、裏に金糸にて一首の歌を縫たるにはなかりしや。其歌に、
  いづれぞと露のやどりをわかぬ間に小笹が原に風のそよふく
斯のごとくの歌ならずや。かやうに打(十四ウ)あかしていふからは、包まず身の上を語られよ。其香には我身にゆかりの有事なれば、身の上を明されよ」と申されしかば、源六夫婦顔見合、「扨々不思議の事も有物かな。只今語られし其印すこしも違わず候也。まづ/\其訳御物がたり下さるべし」と尋ねければ、新十郎双眼に涙をうかめ、「我方ゟかく申からは、何事をか(十五オ)包むべき。しかし其方身のうへも残らず語られよ。左もなくては、此方の事通ぜぬ事も有べし」とやうす有気に申されしかば、始めよりの身のうへ残らずかたつて、「此香は伯母なるもの、是こそ母のかたみとて、守り袋の中に入片時も肌を放さずかけさせて候。かくなり果ても、母や伯母の恋しき時は是を見て心をな(十五ウ)ぐさめ候。昨日母の命日に当り候。今日の日にかゝる会に出合し事よと存じ、初めてたき候也」とくわしくかたり涙にくれて居たりしに、新十郎是を聞深く(ママ)の涙にせきあへず、しばし物をも言ざりしが、やう/\に心を静(しづめ)、「希代の事も有物かな。まさしく其方こそ我娘也」とて、夫ゟ自分の身の上を語るに付て、もろ共に涙に(十六オ)くれて、互に手を取かわしてさめ/゛\と泣ける。おつやは、「さやう候はゞ我子の為には祖父様也。見せ奉らん」といそぎ宿へ帰り、娘をいだき来りければ、新十郎是を見て髪かきなで膝にのせ、おつやに向ひ、「其方は見知らぬはづ也。母のかほに此子のすこしも違わぬぞよ。名は何と付し」といへば、「菊と名づけ、今年にて三才に相成候」と(十六ウ)こたへければ、新十郎聞て、「名香の名を白菊といひ、孫の名も菊といひ、きのふ母の命日に親子の名乗しける事、かれといひ是といひ、一かたならぬふしぎなり」とて、夫より日々に源六夫婦来りて仕へける内に、はや御暇の日限にぞ近づき、帰国の時節に相成けるとかや。(十七オ)
 
以下、次号に続く。
                      (本学教授)