手錢家蔵書は、全体で六五〇点、一二〇一冊から成る(今後の調査でさらに増える可能性がある)。全体に蔵書印や書き入れが多く、これらが蔵書形成の過程を推定するための手掛かりとなる。以下、蔵書形成の過程を概観する。
まず冠李という人物が持っていた一群の書物がある。蔵書印で最も多く見られるのが図版1に掲げた「冠李」印であり、また図版2の「岱青楼冠李印」もある。写本『蕉門俳諧 有也無也之関』奥書に「延享四年八月十八日 手錢冠李」と記すことから(図版3)、手錢氏であることは把握していたが詳細は不明であった。然るに今回の共同調査によって、季硯の弟、兵吉郎長康(享保四年(一七一九)~寛政八年(一七九六))であることが明らかになった。
図版1 冠李蔵書印
図版2 冠李蔵書印
図版3 手錢冠李の奥書
三代季硯は、前述した号「白澤園」の蔵書印を用いる(図版4)。続く四代敬慶も同じ「白澤園」の印を用いる(図版5)。
図版4 季硯書き入れと蔵書印(「白澤園」)
図版5 敬慶書き入れと蔵書印(「白澤園」)
五代有秀も「白澤園」の蔵書印を用いる(図版6の朱白文、墨印)。この有秀の蔵書には、先ほどの冠李から引き継いだものがある。『おくのほそ道』版本(図版7)には、まず冠李の前出二種の蔵書印が捺してあり、その上に被せるようにして有秀が、「四方隣蔵書/白澤薗」と、自分の所蔵であることを墨書きしている(この本、他の箇所に「有秀蔵書」の書き入れがあり、また筆跡からもこの墨書きは有秀によるものと判断する)。
図版6 有秀書き入れ(「衝冠斎」)と蔵書印(「白澤園」)
図版7 冠李蔵書印2種の上に有秀書き入れ(「四方隣蔵書/白澤薗」)
図版8は、『蕉門俳諧極秘聞書』に収める有秀による「神文」。その最後に「寛政八丙辰歳六月日 手錢官三郎/有秀在判」として「冠李尊師 百蘿尊師 両宗匠」と記している。即ち冠李は有秀の俳諧の師であり、その縁で蔵書をまとまった形で譲られたものと推測できる。なお百蘿こと、広瀬百蘿については後に触れる。
図版8 有秀による「神文」
また図版9は、季硯から有秀へと引き継がれたもので、まず下側に「季硯之印」と捺され(写真では不鮮明で読みづらい)、後にその上部に「有秀」と捺された。なお側にある「白澤薗蔵書/四巻之内」は有秀の筆跡である。以上のように、三代から五代にかけてまとまった量の書物が集積されたものと考えられる。
図版9 季硯蔵書印の上部に有秀蔵書印、書き入れ「白澤薗蔵書」
続く六代有芳は、『書物軸物目録』なるものを作成して、蔵書の整理点検を行ったという点で注目すべきである(図版10)。例えば「仏書」「画書」「軍書」などと一定の分類を設けて該当する書名を書き上げた上で、「十五冊」などと冊数を記す。また「壱冊不見」などと注記し、「引合」という印を捺すなど、所在の点検をしたものと窺える。なおこの目録に見える書目について、現存書目と合致するものも多いが、一方目録にのみあって現存しない書目、またその反対のものもある。その事情についての探究は今後の課題である。有芳の蔵書印は、図版11の「白枝屋」、「手錢知英」である。
図版10 有芳筆『書物軸物目録』
図版11 有芳書き入れと蔵書印(「手錢知英」)
このあと七代有鞆、その妻さの子と続く。有鞆には図版12の書き入れと蔵書印、さの子には図版13の書き入れがある。さの子については、後に文芸活動の項で取り上げる。この後も近世最後の八代安秀に至るまで集書は続けられた。安秀には書き入れと「手錢満平」の蔵書印(図版14)がある。
図版12 有鞆書き入れと蔵書印(手錢蔵書」)
図版13 さの子書き入れ
図版14 安秀書き入れと蔵書印(手錢満平)