近世後期の出雲歌壇

 さの子は当時の出雲地方の文芸の中枢にあった人々と、特に和歌を中心として交流した。近世出雲地方の和歌に関する状況については、芦田耕一著『江戸時代の出雲歌壇』(二〇一二年、今井出版刊)に詳述されている。
 近世後期出雲地方の和歌活動が、出雲大社を中心にして行われていたと見られることは、本報告書所収の芦田報告に記される通りである。前掲の釣月と常悦の活動以来二条家流が中心であった出雲の地に、本居宣長門に学んだ千家としざね俊信(出雲大社別当)によって宣長古学と鈴屋派和歌が導入され、その門下から出た千家たかひこ尊孫、島しげおい重老らによって歌風の変化がもたらされ、出雲の和歌活動自体が活発化する。さらに富永芳久、千家たかずみ尊澄の精力的活動が加わって、幕末期〝出雲歌壇〟が形成される。
 さて手錢さの子が、この出雲歌壇の一員として文芸活動を活発に行っていた様が、今回の調査の結果具体的にわかってきた。以下、新たに見出された書簡書きとめ類(さの子自筆)(図版21)によって考察する。

図版21 さの子書簡(富永芳久宛て)