さの子の文芸活動と蔵書

 まず、さの子と富永芳久との文芸的な交流について見る。巻首に『ちとせの舎御せうそこ』と記す書簡書きとめがある。千歳舎は千家尊澄のことであるが、実際には芳久はじめ尊澄以外の人物に関わる書簡をも併せ収めている。そこに「安政五年五月計り芳久大人の元へ遣しけり」とする、さの子から芳久に宛てた書簡がある(安政五年は一八五八)。さの子が芳久の風土記の著書(『出雲国風土記仮字書』などか)を民平(古川氏)経由で入手し、それを親しき者に与え、得た値を芳久に送ったことを述べる。これを承けて「おなしく返事」とする芳久書簡には、このことに感謝しつつ、さの子が去年より方々の人に自分の風土記の書を世話してくれたことが嬉しいと述べている。
 
ひと日民平にものせし風土記をむつたまあへるみやび男にゆづり給ひて、そのあたひ十八ひらおこせ給ひ、すなはち書肆へ遣すべうなん。このふみよ、天の下にたぐひなきふることの伝はり来ぬるを、世にしる人もまれらなるはうれたきことのきはみなるに、去年よりかなたこなたと人にもあたへしらしめ給へるこゝろばえのふかきこと、いにしへしのぶるおのれらが心にはなぞへなくうれしうなん。
 
これに続けて、風土記を重要と考える所以について自説を縷々語っている。芳久はさの子を、自分の風土記に向ける熱意を理解してくれる人と見なしているのである。
 次は書物をめぐる遣り取りである。『かた〴〵のせうそこうつし』と題する書簡書きとめに収める「楯の舎君のもとより」(「神有月三日」とある。同じく安政五年か)は、楯の舎(芳久)からさの子に宛てたもので、都の書肆から本を取り寄せ、契沖の『和字正濫抄』、橘守部の『心の種』、近藤芳樹『寄居歌談』を手に入れたことを言う。
 
此ほどはみやこの書やよりとり〴〵にめづらかなる書どもみせ侍るを、さこそは御めにとまれるふみのおほかりなめとおしはかり侍りてなん、契中の和字抄、守部がこゝろのたね、芳樹がうたがたりなど、めづらしとには侍らねどいさゝかとゝのひ侍りぬ。
 
 文久元年(一八六一)長月廿日のものとする「よし久君よりかへし」(『かた〴〵のせうそこうつし』は、芳久からさの子に宛てたもので、さの子が『和字正濫抄』を返却してきたので、次には何をがなと思っていたところ、松江からたにざく(短冊)に歌を書いて届けてきたのでこれをお貸ししようと言う。
 
かへし給ひし和字正濫抄にひきかへめづらしき書をだにとおもひ給ふれど、ちりのみつもる文机のあたりにはことふりたるものゝみにて、しみさへすみかをもとめがちになん。何をがなとわけ見る折しも、松江のかたよりたにざくといふものに歌かきて給はりければ、そをだにとすなはちまゐらせ侍りぬ。
 
 以下は、さの子が芳久編の歌集の跋文を書くことをめぐっての遣り取りである。『手中心おぼへ』と前表紙に記す仮綴じ本に、さの子が芳久宛てに認めた書簡の下書きがある。芳久は、出雲国人の和歌を集めた三部作『丙辰出雲国三十六歌仙』(安政三年(一八五六))、『丁巳出雲国五十歌撰』(同四年)、『戊午出雲国五十歌撰』(同五年)を上梓している。この書簡で「三十六歌仙のしりへ書」と言うが、実際にはさの子が跋文を書いたのは第二の『丁巳出雲国五十歌撰』であり、これのことと思われる。ここで芳久から跋文を書くように言われたことに恐縮しながら、「よきに見直したまはんことをねがひ奉る」と添削を求めている。
 
三十六歌仙のしりへ書をおのれにせよとのたまひつるよし承り、いと〳〵かたじけなくうれしく侍れど、あまりにおこなるわざにし侍れば、はづかしく、幾たびもじゝ侍りしを、清とし君、清かね君、こはめいぼくのことぞとせちにすゝめ給へば、いなみがたくて、いとつたなきことなんいひ出侍りぬ。君よきに見直したまはんことをねがひ奉るになん。
 
これに対して「卯月中比同じ人の御かへし」とする芳久書簡(『かた〳〵のせうそこうつし』では、さの子から預かった草稿に添削を入れておいたので、修正した上で早々に届けてくれるようにと述べている。
 
さても歌仙のしりへ書おもしろくもをかしくもものし給へるかな。もしはかうもやとおもひ給ふるふしもかい出侍りぬ。あらぬことには侍らんを、とり直し給ひていかで〳〵とく〳〵おこせたまひね。
 
さの子はまた、次の「よし久君へ返し」(『同』において、近年の歌集と自分との関わりを述べている。
 
さきつ日はうるはしくこまやかなる御かへりごと、見奉るさへいとかたじけなきに、まいておとゝしの弐百首めぐませたまひ、いと〳〵うれしう、此比は是冊子見侍るに、おもしろき歌どもにて、わがえせうたのなきぞ中々に心やすく侍る。こぞのにはをのがもくはひさせ給ふよし、いとはづかしくとりかへしつべうもおもひ給ふるになん、はた五十歌仙のしりへがきも清左君のつてにて君よきにはからひ給はりしよし、いと〳〵うれしくは思ひ給へながら、あまりに月日たちし事ゆへ、先つ日の文にもわざとかきもらしつ。
 
「おとゝしの弐百首」は西田惟恒編の『安政二年百首』、または『安政三年二百首』を指すかと推測する。「こぞ(去年)の」は芳久編三部作の第一『丙辰出雲国三十六歌仙』(安政三年)で、これにはさの子歌が収められている。そして「五十歌仙のしりへがき」が件の『丁巳出雲国五十歌撰』跋のことと見られる。さの子は自分の入集を面映ゆいこととしながら、芳久から跋文執筆を勧められたことを光栄と受けとめているのである。なおここに見えるきよすけ清左とは、前掲広瀬百蘿の孫茂竹の歌人としての名である。
 さて芳久の指導は『源氏物語』に関するところにまで及んだ。「富永君よりかへし」(同じく『かた〴〵のせうそこうつし』には、『湖月抄』を見るべきこと、帚木巻、殊に雨夜の品定めが根本であることを説く。
 
はた去年のぐゑんじの注書見給ひそめぬるよし、湖月抄とあはせみたまひなば、はやくあきらめ給ひぬべし。されど先生ときこゆる人もかたきふしにいふなる書なれば、まづひとわたりに見給ひて、はゝきゞの巻をとく見たまひね。しなさだめなん五十四帖のむねとあるくだりと承り侍る。げにおもしろくもをかしくも侍るかな、などきこゆるものから、千尋のそこのふかきあぢはひは、いかでかくみしるべき。定家の中納言も、源氏みざらむ歌よみはむげのことなりとかのたまひし。うたまなびのためにもかぎりなくいとよきふみになん。
 
「源氏みざらむ歌よみ」云々は正しくは藤原俊成の言であるが、ここでの芳久の助言から、詠歌の営みとの関連の中で物語の教えも行われていたことが知られるのである。
 以下、千家尊澄に関わる書簡について見る。先にも触れた『ちとせの舎御せうそこ』に次の尊澄書簡がある。宛名は記されないが、ここでは一旦さの子宛てと解する。まず、歌の題を与えたところ見事に詠んで届けてきたことを褒めた上で、島重老(前掲)のもとへ遣わしていた歌の巻が返ってきたのでお貸ししようと述べている。
 
さてひと日歌の題をたてまつり置しに、かずおほきをもいとひ給はで残るくまなくこよなうおかしくもよみつらね給ひておくりものし給ふをみもてゆけば、めもさむばかりおもしろううけ給はり侍りぬ。さてさいつころ島重老がもとへつかはしおきし歌のまき、よべこゝにかへしゝまゝ御かへりごとにそへてたてまつり侍ぬれば、御めにふれさせたまひてよかし。
 
『同』所収「人にかはりて富永芳久が元に遣しける」は、尊澄に代わって芳久宛てに認めたというもので、書き手の署名はないがさの子によるものと見ておく。前日に芳久が尊澄のもとを訪れ本居内遠、加納諸平の短冊を届けてくれたことへの礼、そして芳久所蔵の『古事記』『玉だすき』の閲覧を尊澄が希望しているのでしばらく貸してほしい旨の依頼が述べられている。
 
我ちとせのやの君の御もとにきのふは御とぶらひ給ひしよし。さりがたきことの侍りて外にものしたるほどにて、たいめたまはらざりしは、いとくちをしうなん。名だゝる内遠、諸平のたにざくふたひらまでたてまつり給ひしを、いみじうめでさせ給ひぬ。そのよろこびをくりかへしまをせとおほせごとかうぶりぬ。はた君のもたまへる古事記、玉だすきの二典を、わが君見たまはんの御こゝろざし侍れば、しばしかしたまひてよかし。
 
仮に一つ前の書簡が直接さの子に宛てたものでなく、またこの書簡の代書者がさの子以外の人であったとしても、このような文芸をめぐる遣り取りが彼女の身近で行われていたことは確かである。『ちとせの舎御せうそこ』にはこの他にも、尊澄が「我大人の御まつり」とて、千家俊信を偲ぶ恒例行事を催すので歌文を寄せてほしいこと、そのために我が千歳舎を訪うてほしいことを述べた書簡もある。
 以上挙げたところから、歌文の創作、そのための指導、物語の学び、書物や短冊の遣り取りなどが行われていた様を知ることができる。手錢家蔵書には、千家尊孫の『類題真璞集』『類題八雲集』、富永芳久の『出雲国名所歌集』『丙辰出雲国三十六歌仙』『戊午出雲国五十歌撰』、千家尊澄の『はなのしづ枝』『松壺文集』『歌神考』など、近世後期出雲歌壇で生まれた書が多く含まれるが、これらの大部分はさの子による文芸活動の実践と連動しながら集積されたものと推定されるのである。