近世文学のうち、和歌・漢詩・俳諧などの韻文がもっとも多くの愛好者を有したことは、未だに調査の及ばない無数の作品が全国に伝存するであろう状況を容易に想定できる点からも、ほぼ間違いないと思われる。守るべき作法があり、指導を受けなければまともな作品が作れないという制約があるために、高尚な文学に親しむという満足感が得られやすい。一方では、詩形が短く、散文に比べて取り付きやすいという手軽さもある。また、韻文は一人で楽しむものではなく、指導者や仲間を必要とするため、ある作者の周辺には必ず文化圏(歌壇・詩壇・俳壇)が生まれる。韻文の持つこのような特徴が愛好者の増大につながるのは自然の成り行きであろう。
そして、和歌と漢詩は伝統文学として和漢の雅文学を代表するものであり、連歌から派生した新興の俗文学である俳諧とは一線を画するという常識が近世中期まではほぼ共有されていたであろうことも、たとえば豊富な和歌作品を残す歌人が同時に俳諧の有力な詠み手でもあるという事例を見出すのに苦労する経験に基づけば、実態を反映した推測として了解できる。
ただし、それは、和歌史・漢詩史・俳諧史をそれぞれ別個に確立した体系として受け止め、また中央から地方への伝播を巨視的に俯瞰する視点に立ってこそ得られる見解であり、一つ一つの伝存資料に即して知見を積み上げて行けば、また自ずと異なる見通しが得られることになるだろう。漢詩はひとまず措き、起源と詩形に共通点を持つ和歌と俳諧が、文学としての地位や広がりの度合いにおいてどのように競い合いつつ多くの人々を獲得していったのか、資料に即して解明する必要を強く感じる。
この度、財団法人手銭記念館所蔵の和歌に関する典籍・文書を調査する機会を与えられ、近世中期以降の手銭家歴代当主の和歌活動を一望できたのは、図式化を急がずに資料そのものの持つ意味を考える立場を取る筆者にとって、非常に有意義な体験となった。出雲大社と深い関わりを有する手銭家が、出雲歌壇の中でどのような地位を占め、和歌と俳諧を自らの内部にどのように位置付けていたのかは、文化の求心力を強く持つ地方の文学活動の一つの典型として精査に値する課題となろう。以下はその調査報告である。