季硯の和歌活動がいつ頃から本格化したのかははっきりしないが、手銭家の記録に拠る限り、明和九年(安永元年 一七七二)が大きな転機となったのは確かである。和歌に特化した季硯の手控えである「愛屋免日記」(五二五)(図版3)の巻頭に、次のような記載を見る。

図版3 「愛屋免日記」

   (【翻刻文】史資料番号525の最初の画像左側冒頭~4つ目の画像右側末尾まで) 
  明和九卯月三日 於茂竹庵会合
    松方会制度
  一毎月会日、八日、十八日、廿四日に議定之事。
    但、十八日は本式、廿四日内会也。
  一会日、巳刻より、無遅之参集之事。
    但、弁当可致持参候。近隣之会頭たりとも、食事に帰宅可為無用事。
  一会頭心遣無用に候。茶計差出可申事。
  一当座之詠草紙中折二帖、会頭より差出可申事。
    但、本詠草箱折は可致持参事。
  一会日故障之人は、前日又は会日朝迄に会頭へ断可有之事。
  一会頭順番に相勤可申候。若当番無拠差合之節は、次へ相頼、振替可申事。
  一会合之翌日、会帳無遅滞次之番手へ相送可申事。
  一指合に而出席無之面々は、当座之題ヲ申請、宿に而出詠仕候儀、可為無用事。
  一会日、俄に会頭差合之儀有之、会日ヲ余日に振替候儀、是迄度々有之候。制法乱之儀故、此後決而不相成事。
  一懐紙、小鷹之外不相成事。
  一老師へ音物等之儀、年行事より諸事相調可申候。当年之行事は正至相勤之事。
    町連中実名
  藤間九左衛門藤安、藤喜政懿(ヨシ)、石玉政虎、山根氏周迪、西神政常、長美朝(トモ)真(ザネ)、白兵長康、岡六正至(ユキ)、藤儀藤匡(マサ)、岡彦正辰(トキ)、藤大義彦、栄道 松林寺、包信山根右膳(4)。
 
 記事によれば、この年の四月三日、百羅宅(茂竹庵)で開催された会合で、「松方会」と呼称される杵築の歌会の会則が決定した。歌会の定例開催日、開始時刻と弁当持参のこと、もてなし方、詠草紙のこと、欠席の連絡、会頭の決め方、記録帳の扱い、欠席者の当座題出詠無用のこと、開催日を会頭の都合で変更しないこと、懐紙の指定、「老師」への付け届けの出し方など、極めて具体的な取り決めがなされていて、会運営の様子が如実に知られる。欠席や日程の変更を無造作に行わないように互いの馴れ合いを戒めるあたり、歌会に真剣に取り組もうとしている彼らの姿勢が窺えて興味深い。
 末尾の「町連中実名」には、手銭家の季硯・敬慶や会場を提供した百羅を除く歌会の常連達の呼称が省略を交えつつ記されているらしい。松林寺は杵築の寺院で、栄道は恐らくは住職だろう。その他の人物については、複数の資料を突き合わせてその正体を知る必要がある。それから「老師」とは誰なのかも不可欠の検討事項となろう。
 一丁白紙を挟んで次の記事となる。
 
  武者小路三位実岳卿十三回忌 兼題 秋懐旧 七月
  一芝山故中納言重豊卿七回忌 秋月 秋夢 兼題 八月
  一初学和歌式 和歌庭訓抄 耳底記
 
 武者小路実岳は宝暦一〇年(一七六〇)八月一二日、芝山重豊は明和三年(一七六六)八月六日にそれぞれ薨去しているから、明和九年は、実岳の十三回忌、重豊の七回忌にあたる。七月と八月に追善和歌を集めて武者小路・芝山両家に献じようとの企画が持ち上がり、「老師」から兼題が予め指定されたということなのであろう。最後の一つ書に並ぶ三つの書名は、歌会にあわせて歌学書の輪読が計画されていたことを示すものかもしれない。
 以下、貼紙に五月以降一二月までの兼題が列挙されるが、こちらでは毎月三日に赤人社法楽が行われることになっており、八日から三日へと変更されたことがわかる。三日と一八日の会は前月の同日まで、二四日の会は当日までに詠草を提出する旨の断り書きもあり、貼紙の下には、
 
    会合案内状
  明何日、月次之和歌、於私宅会頭相勤候間、巳刻より御参集可被成候也。
    月日           某
 
と、歌会案内状の書式まで記録されて、歌会としての内実を十分に備えた組織運営が機能し始めたことを窺わせる。