季硯達の「老師」がいかなる人物で、どのような指導を行ったかは、明和九年に発足した松方会の実態を知る上で是非とも明らかにすべき課題である。「愛屋免日記」やその他の同時代資料を用いて検討に入る。
 まず、「愛屋免日記」の中の次の記事が目につく。
 
    秋懐旧         常悦師
  幾とせもかわらぬ月の影にこそその世の秋の面影は見れ
  跡とふも猶うき秋よしらつゆのふりにける身は消やらずして
    秋月
  とし波は光とゞめず秋ははや七瀬の淀も月ぞ流るゝ
  かたみぞと都の秋を忍ぶかないづこもおなじ月はすめども
    秋夢
  袖の露おきゐて身をもしぼる哉見はてぬ秋の夢の名ごりに
  露消し名残もはかな夢の世にゆめをぞたのむ秋の手まくら
 
 「秋懐旧」「秋月」「秋夢」は、前節で触れた実岳と重豊の追善和歌の兼題であった。「愛屋免日記」は、詠草の写しというより歌学全般にわたる雑記帳の性格が強く、「常悦師」の三題六首は季硯の詠作上の参考資料として書き留められたかと思われる。「師」の作であればこそ意義があったのであろう。
 また、「愛屋免日記」には、明らかに季硯とは異なる筆跡で書かれた大量の紙片が貼付されている。それらは、季硯の和歌に対する具体的な指導であったり、歌学の知見の披露であったりするのだが、たとえば次のような紙片からは、指導者の歌学の系統が見て取れる。(図版4)

図版4 「愛屋免日記」貼紙

 
   先達之金言、老師之教誡、承候事、少ばかり申上候。
  玄旨公曰、只歌は正風体によむべし。いろ/\にまはしてよむはまぎらかし物也。
  又曰、只直にすらりとよむべし。
  又曰、まづろくによむが肝心也。おもてから裏へ行たるがよき也。
  又曰、聞へやすきがよき也。
  又曰、風体肝要也。めづらしくなけれども、風をさへよくよみゆけば、自然に歌よく成也。
  頓阿公曰、歌はやすらかに、こと%\しからず、うつくしくつゞくべし。
  清水谷実業卿曰、歌は珍敷希逸体おもしろくなど心にかけ候事なく、道理よく聞へ、風体いやしからぬ様によむべし。
  儀同三司実陰公曰、歌はよくよまんとおもふが魔也。
   右は御工夫のたよりにもやとかいつけ申候。
 
 細川幽斎、頓阿、清水谷実業、武者小路実陰と、まさに堂上歌学の正統を体現する人物の発言が畳み掛けるように繰り出されてゆく。この紙片が「常悦師」の手になるものとすれば、彼には歌学書の記事や師匠から受けた直接指導の中から自在に情報を引き出して季硯に提供する用意があったということになる。
 松方会が始まった翌年には、季硯は「百人一首」の講釈を受講し、聞書をまとめた。「安永二卯月三日開講 百人一首聞書 季硯」(四九四)(図版5)の成立である。

図版5 「安永二卯月三日開講 百人一首聞書 季硯」

天智天皇から壬生忠見までを飛び飛びに講じた内容で、歌の解釈というよりも、「百人一首」を引き合いに出しつつ歌学の薀蓄を披瀝するといった体の講釈であった。素性法師の講釈の後に「常悦師、閏三月十六日御入来」云々とあり、空白を挟んで「安永三午八月廿六日初ル」と記して三条右大臣の記事に移ることから、「常悦師」が安永二年閏三月一六日に杵築以外の土地から出向いて来て四月三日に開講したこと、講釈は中断を含みつつ実施されたことなどが推測される。そして本書は、「常悦師」の講釈の口吻をまざまざと伝えてくれる点で非常に貴重な資料である。冒頭近くの記述を掲げよう。
 
  抑私師釣師ハ江戸也。常々申サルヽ、「和歌ニ執心アルナラ、堂上ニテ不被立入  
  テハ用ニ不立」ト被申也。釣師、妻ヲ一子ヘ遣シテ遁世スト也。釣師ノ前ハ浄
  土宗也。旦那寺ニて剃髪シ、夫ヨリ京都ヘ登リ、辛労アリ。然ニ二条与力ニ松
  井善右衛門、ウトク人也。中院ミツ持公ノ御代也。此善右衛門、ミツモチ公無
  類ノ御門弟ニて、中院家ヘ入ハマリテ、暫ミツモチ公ハ冷源院様ノ御師範ト御 
 
  成被成候也。(中略)
例之ウタザンマヰニテ、三玉集ヲ被撰シ也。奥書ニも善右衛門トアル也。善右衛門ヘ中ノ院家ノ蜜((ママ))書不残御伝授アル也。其時に釣月京都ニ居ル。其時之御宗匠清水谷大助方之実成卿、ミツモチ公ハ御師範、釣月ハ実成卿ノ御門生也。公辺ノ御会ニモ被召附シ也。松井カウリウモ釣月ヲ我子同然ニ念頭ス。釣月手前ニて多分カウリウノ家ニ居バ、カウリウ一子モ善右衛門ト申、ウトキ生付ニテ一向和歌イケズ、夫故釣月ヘ中院家ノ秘書無残釣師ヘ移ル。釣師、初ハ西代持円寺ニ居ス。釣師内存、八雲之地出雲ニ残ストノ念願也。(後略)
 
 まず、講釈の主は「釣師」即ち「釣月」から直接教えを受けている。また、釣月の人物像や出雲での最初の居所である西代の持円寺(慈円寺)、また松井幸隆の子の才能が乏しかったことなど、釣月本人から仕入れたとしか思えない、かなり具体的な情報を有している。
 以上の情報を総合すると、釣月から伝授を受け、二条派堂上歌学を信奉し、武者小路実岳や芝山重豊の追善和歌会を主催して京へ詠草を送り、他所から出向いて季硯達に「百人一首」を講じた「常悦師」とは、松江在住の百忍庵常悦(小豆沢勝興。宝永三年〈一七〇六〉~安永五年〈一七七六〉)(5)としか考えられない。となれば、杵築の松方会連中の和歌の添削指導にあたったのも常悦であろうし、「愛屋免日記」に貼り込まれた書簡・紙片も、常悦が季硯に書き送ったものと推定できる。
 なお、右の記載中には、「中院ミツ持」「ミツモチ」(通茂)、「冷源院」(霊元院)、「大助」(大弼)、「実成」(実業)、「持円寺」(慈円寺)などのように、耳で聴いて倉卒に筆録したとしか思えない表記上の誤りが多数見られるので、常悦の講釈の席上で季硯が聞書きした原本と見てよいであろう。少なくとも親本を座右に置いて書写したとは考えられない。転写の際にこれ程の錯誤を見逃したとすれば、季硯の学力はとても歌学の享受に耐えられそうにない。講義内容を即座に書き取る便宜上、同音の簡略な別字に置き換えたまでであろう。もっとも、中院通茂の名が「ミツモチ」と記録されたのは、常悦の発音がそのように聞こえたことの反映かもしれず、そうであれば季硯の誤りとはいえない。そして、「通茂」の読みが「みちしげ」でなく「みちもち」であったことを示す証拠ともなる。
 季硯とその周辺の一次資料に大量に残る指導の跡は、これまで十分な検討材料に恵まれなかった百忍庵常悦の活動内容を極めて具体的かつ多角的に知らせてくれる。常悦は漸くその真面目を明らかにし始めたといってよい。