図版6 「高角社奉納百首和歌」
図版7 「高角社奉納百首和歌」
近世後期の出雲歌壇は、天保一三年(一八四二)刊『類題八雲集』の出詠者の素性を伝える千家家蔵「八雲集作者姓名録」(7)によってその概略を知ることができるが、「高角社奉納百首和歌」はそれより七〇年ほど前の、堂上和歌が専ら学ばれた時代の状況を概括し得る資料となっている。小田切尚足・朝日郷保といった松江藩重臣(8)、千家・北島両国造家以下、出雲大社に関係する人々も多く出詠する中、季硯達もしっかりと百首の一翼を担う。手銭家とその周辺で組織される松方会の人々の和歌を、題とともに掲げる。なお、第二節に紹介した「愛屋免日記」巻頭の、「松方会制度」や「町連中実名」に見える呼称を、作者名の下に括弧に入れて添えてみる。
梅香留袖 手銭季硯
閨の戸の明てや見まし春風やよ深く誘ふ袖の梅がゝ
橋辺柳 藤間藤逸(藤間九左衛門藤安)
浅みどり柳の髪を打はへて浪にぞあかぬ宇治の橋姫
雲雀落 藤間政懿(藤喜政懿)
かすみ行空に聞えし夕雲雀落る末野に床やとん((ママ))
隣蚊遣火 西村政常(西神政常)
かやりたく隣はいかに爰だにも烟いぶせきよはの手枕
樹陰蝉 岡垣正辰(岡彦正辰)
ゆふ立のなごりの露をよすがにて木陰にすだく蝉の諸声
雲間初雁 石田正虎(石玉政虎)
しら雲の棚引山の峰こえてさやかに落る初雁の声
秋月添光 岡垣正至(岡六正至)
いつもみる月やあらぬとおもふまで秋はいかなる光そふらん
霧隔船 手銭長康(白兵長康)
漕出し舟は跡なく立こめて名のみあかしの浦の朝霧
落葉有声 手銭敬慶
からにしき秋の余波をしたへとや枝に音して紅葉ちるらん
待空恋 山根周迪(山根氏周迪)
まつよはにひとりねよとの鐘きけばとはぬ恨の数ぞゝひぬる
古寺鐘 釈栄道(栄道 松林寺)
入相のかねのひゞきにいとゞなを心すみぬる峰の古寺
樵路雨 長谷川朝真(長美朝真)
ぬれてなをおもきをはこぶ柴人の帰る山路の雨やくるしき
杣川筏 山根包信(包信山根右膳)
いかばかり杣木の数のおほゐ河浪の間もなく下す筏は
往事如夢 広瀬百羅(茂竹庵)
うつゝとはいつをかいはん昔より思へば同じ夢の世の中
寄神祇祝 釈常悦
きみも臣も身を合せたる御代にあひて神も昔や思ひ出らん
「愛屋免日記」の「町連中実名」に見えた一三人のうち、藤儀藤匡・藤大義彦の二人を除く一一人が出詠し、さらに「松方会制度」決定の会合の場を提供した百羅、手銭家の季硯・敬慶二代と師匠の常悦を加えた一五名の歌が並んでいる。「町連中実名」では、藤間(とうま)が「藤」(ただし藤逸〈藤安〉の場合は「藤間」と記す)、西村が「西」、岡垣が「岡」、石田が「石」、長谷川が「長」とそれぞれ省略されているのがわかる。実名との間にある字は屋号か通称かの略称であろう。先に言及した「八雲集作者姓名録」に記された歌人の三代ほど前の人々が著録された可能性は高く、姓名が確定すれば特定は一層容易となる(9)。
ここで留意されるのが、「町連中実名」では「白兵長康」と記録され、「高角社奉納百首和歌」では「漕出し」歌を詠じた手銭長康の正体である。「町連中実名」に名があるのは、手銭家の季硯・敬慶とは別扱いということを示すが、姓は手銭である。つまるところ、実名の長康の前に置かれた「白兵」の意味するところは何かという問題を解決すれば、彼の素性は判明する。もし、「白」が手銭家の屋号白枝屋、「兵」が通称兵吉郎の略だとすれば、長康は季硯の弟で別家を立てた冠李の実名と考えざるを得ない。この時代、季硯・敬慶と活動を共にした手銭姓の人物は冠李を措いて他にはいない。つまり、これまでもっぱら俳諧活動だけが取り上げられてきた冠李は、実は長康の実名で和歌にも興じていたのだった。同様に、俳人として著名であった広瀬百羅も、俳諧とともに和歌をよくし、杵築歌壇の重要人物の一人であったと考えられる。二人の違いは、長康が実名長康と俳号冠李を和歌と俳諧とで使い分けたのに対し、百羅は和歌も俳諧も百羅で通した点にある。先述した通り、季硯も和歌・漢詩・俳諧を同じ名で詠じた。明和末から安永にかけての杵築では、和歌と俳諧に対する姿勢を微妙に違える人々が歌会・俳席を共にしていた。