安永五年に常悦が没した後は、百羅が指導に当ったらしい。「和歌集」(四六九)と仮題を付された書留は、「安永二癸巳三月十八日石州高角社奉納百首題 落葉有声」として「からにしき秋の余波をしたへとや枝に音して紅葉ちるらん」の歌が記されるし、「敬慶」の名を明記した歌も記録されているので、敬慶が自歌を整理した家集の性格を色濃く伝えるものだが、その中に次のような記事がある。
百羅先生珍重の褒詞のありし時
めづらしな雪を重て咲梅のいろかは木々の花にさきだす
ことのはの花珍しく咲いでゝ匂ひは高くよもにみちぬる
百羅の適切な指導が積み重ねられて敬慶達の和歌も上達しつつあるという喜びと充実感を詠じた作と読める。俳諧で名を成したはずの百羅は、常悦の衣鉢を継いで、当然のように歌会の指導に当った。俳諧と和歌の境界を自在に跨ぐ百羅には何のためらいもないかに見える。そして、敬慶達も同様だったと見てよいのではないか。「和歌集」の末尾には「俳諧四季混雑発句」として俳号「貫路」の発句が並ぶ。筆跡は同じだから、敬慶が自詠の発句を「和歌集」の余白に書き留めたとすれば、貫路は敬慶の俳号と見なさざるを得なくなる。勿論断言することはできないが、少なくとも和歌と俳諧の間を自由に往来する意識が敬慶達にも共有されていたことだけは確かといえるだろう。
季硯・敬慶の近世中期、和歌の指導は、公家のもとで学んで得た知識に基づく添削と歌学伝授が中心をなした。常悦はその点で典型的な指導者である。しかし、時代が下るにつれて、地方においては和歌だけの指導では文化圏を形成する構成員の広汎な要求に応じられなくなり、俳諧を合せて指導できる百羅のような存在が重宝されたのであろう。季硯・敬慶が和歌と俳諧の双方に通じた背景には、中央でははっきりと区別された歌壇と俳壇を、地方では人脈の限界もあってむしろ積極的に融合させたという面があったのではないか。手銭家に伝わる大量の資料は、大社とともに生きる杵築の人々の文学観を的確に炙り出すことを可能にする。まさに有力地方文化圏の雛形として、さまざまな検討が要請されている。