大社地方の和歌を考えるに際しては、次のことを念頭に置くことが必要である。
まず、和歌発祥の地であること。紀貫之は『古今集』(九〇五年成立)仮名序で「人の世となりて、素盞嗚尊よりぞ三十文字あまり一文字は詠みける。・・女(注、櫛名田比売)と住み給はむとて、出雲の国に宮造りし給ふ時に、その所に八色の雲の立つを見て詠み給へるなり。八雲たつ出雲八重垣妻ごめに八重垣つくるその八重垣を」と書く。この歌は『古事記』にみられるが、これをもって貫之は出雲を和歌発祥の地だと揚言したのである。
次に、風土記として、『出雲国風土記』が完本として国内唯一残存する(七三三年成立)こと。知られるごとく、風土記は和銅六年(七一三)に各国に制作する詔命が出されたが、完全な形で残っているのは出雲だけであり、これは出雲人が郷土を愛することの証しであるといえよう。
そして、出雲大社(杵築大社)が存在すること。大社の神官が中心になって和歌発祥の地であることを顕彰するべく歌を詠み、大社に歌集を奉納する。神に対する畏敬の念のあらわれでもある。