釣月法師

 江戸時代末期の大社歌壇を論じるには、その前夜の歌人として釣月法師(ちょうげつほうし。一六五九~一七二九)を等閑視することはできない。
 釣月は明珠庵、白翁、水柳軒と号する。出雲大社に奉納した歌集『清地草』(すがぐさ、すがちぐさ、とも。一七〇二年成立)に「大社に詣でて、社頭花 武州産釈釣月」として「人の世の言葉の種とさかへけり花も八雲の春をかさねて」とみえ、江戸生まれであることが分かる。これが詠まれたのは出雲下向以前である。「釣月法師墓碑銘写」によれば、歌道のため、三十二歳で出家、上洛し、霊元院歌壇の清水谷実業(一六四八~一七〇九)の門に入り、およそ二〇年間の在京の後に江戸に帰る。その折に関東に下向中の同じ霊元院歌壇の武者小路実陰(一六六一~一七三八)に会い、「御旅館にまうのぼりつつ御門弟となり、修行星霜を経」たが、そこで出雲下向に思い至るのである。その動機は「おもへらく出雲国は、八雲神詠根本の地たるに、歌道行れざること念なく覚へて、宝永の頃当国に下向し」たという。和歌発祥の地であるにもかかわらず、歌道が盛んでないことを無念に思い、宝永年間(一七〇四~九)のころに出雲にやって来たのである。しかし、その後、再び上洛する。「猶道の奥秘を極む事を思ひ、ふたたび京師におもむき、中院内府通茂公へも御立入を免さる」とあり、霊元院歌壇の中院通茂(一六三一~一七一〇)の門に入ったというが、やや疑問もある。また通茂の高弟松井幸隆(生没年未詳)の教えをうける。その後、再び出雲に来て一生を終えるのである。これらの実業・実陰・通茂らの堂上(とうしょう。公家)歌人は二条家流を伝えている。
出雲での釣月の活動は「島重老翁の略伝」には「出雲国は二条家の詠歌流行して、釣月あり常悦(注、小豆沢。松江の豪商。一七〇六~七六)あり、時の宗匠家としてこれにしたがふ門生あまたなりき」、「釣月法師墓碑銘写」には「出雲に帰り数多伝書を講習し、弘く教をほどこし、皆伝の好士六七輩の中、俗名小豆沢浅右衛門勝興出家して百忍庵常悦と号す。此僧正統なり」とあり、出雲歌壇の中心的な人物となったのである。
釣月が歌道伝授に積極的であったことも無視できない。「皆伝の好士六七輩」とあるように伝授を六、七人に授けている。釣月自身は実業や幸隆から「古今伝授」等の伝授をうけていた。まずその正統は小豆沢常悦であるという。「伊勢物語口決」について、享保八年(一七二三)冬に明珠庵(松江にあったか)で弟子たちを集めて「伊勢物語全部講義」を行なっているが、このあと常悦一人だけが数年をかけて伝授を乞い、相伝を許されたという。そのほかに伝授されたのは勝部芳房や山中章弘がいるが、これ以外の人は明らかにしがたい。
享保八年には益田市にある柿本神社に歌を奉納している。同年三月一八日に柿本人麿の千年忌の大祭が行なわれたが、これを機に参詣を思いついたという。大社の草庵を出発し帰着するまで一二日間を費やしての船旅であった。『釣月翁鴨山参詣記』には、「千とせふべき松江の府、神のます素鵝の里、八雲のみちにこゝろをよする人々をすゝめて、言葉の林をわけ、こゝろのいづみをくみ、鳥のあとにまかせ、もしほ草かきあつめて、かれこれをのをのふたもゝちの和歌をふた巻として鴨山の社におさめたてまつる」とあり、松江や大社で和歌に心得のある人々から歌を募ったところ二〇〇首も集まり、二巻にして奉納したのである。残念ながら、これらの歌は記されていない。
また、「大社八景」の和歌を出雲大社に奉納している。自身で選んだ名勝地に添える歌の制作を堂上家に依頼するためにわざわざ上洛する。次に名勝と歌人を挙げておこう。
社頭夜燈 中院通躬/八雲山晴嵐 烏丸光栄/素鵞川千鳥 飛鳥井雅香/御崎山秋月
冷泉宗家/真名井清流 冷泉為久/出雲浦魚舟 三条公福/関屋翠松 久世通夏/高浜暮雪 武者小路実陰
 最後に、「釣月法師墓碑銘写」から釣月の墓碑を造った動機を説明する部分を引用して、彼の出雲の和歌への貢献のまとめとしたい。
  此僧なからましかば、一国和歌の正風をしらんや。門様連綿して歌道絶えざる事、奇
  異の大功をしらしめんと、道脈の門人石を建て、後世に伝へる而已