千家俊信(せんげとしざね。一七六四~一八三一)は七五代国造千家俊勝の次男として生まれる。兄は七六代国造俊秀である。若くして分家。字は清主。葵斎・梅之舎と号する。出雲大社別当。国学者・歌人であるが、天文学・槍術にも通じていた。
幼少より学問を志し、松江で漢学を学んだあと、上洛して垂加神道や愛媛の三島神社神主鎌田五根の橘家神道の教えを受けた。俊信の進むべき道を決定づけたのは二人の偉大な師との出会いである。
一人は「風土記翁」と称される国学者内山真龍(一七四〇~一八二一)である。静岡の天竜市の庄家であり、二十一歳で賀茂真淵(一六九七~一七六九)に師事する。もともと『出雲国風土記』に興味をもち、ある機会をとらえて出雲への実地検証を思いついたという。『出雲日記』によれば、天明六年(一七八六)二月一六日に出雲国に入り、松江を経由して二三日に大社に到着し国造の神楽などを鑑賞している。書物の上での知識と実際とが違っていたとの言及が散見し、この踏査を踏まえたうえで執筆されたのが『出雲風土記解』である。本書はその後写本が多く作成されるほどの評判をとる。
俊信は真龍の名声を知り、寛政四年(一七九二)に弟清足とともに、真龍を訪問、入門し『出雲国風土記』を学ぶ。そして俊信自身も『出雲風土記解』の注釈を基本にし、千家国造家蔵の写本を底本として諸本を参看した『訂正出雲風土記』上・下2冊を作る。これは、注釈書ではなく、必要に応じて訓点を施し、振り仮名を施すなど解読に適している点に特徴がある。本書は江戸・大阪・京都の三都のほか名古屋などの本屋が名を列ねていることから多くの需要が見込まれたのであろう。
いま一人の師は著名な国学者で医師でもある松阪の本居宣長(一七三〇~一八〇一)である。真龍の勧めにより、書簡を通じて寛政四年に入門する。宣長は神学上、出雲をすこぶる重要視しており、「八雲たつ出雲の神をいかに思ふ大国主を人はしらずやも」と出雲大社の祭神を詠み、出雲を「別而格別之神跡に御座候へば」と揚言しているので、俊信の入門をことのほか喜んだに違いない。入門を果たしたものの宣長に直接会うことはなかなか叶わず、寛政七年九月に初めて「鈴屋」(宣長の私塾)を訪問し、翌八年一月まで滞在する。その間、講筵に列したのは、『湖月抄』をテキストにしての『源氏物語』葵~明石巻、『伊勢物語』『延喜式』『百人一首』であった。二回目の「鈴屋」来遊は寛政一〇年であるが、詳細は明らかでない。三回目の師弟の出会いは京都であり、俊信は享和元年(一八〇一)四月一七日から五月六日まで滞在している。その間、多くの堂上と会い、また俊信の要望による『古語拾遺』を聴講している。
講筵に列する以外にも書簡での往返がある。その内容は、たとえば
・宣長は『古事記』『日本書紀』『万葉集』を薦める。
・俊信が歌の詠み方や祝詞の作法を尋ねたり、添削を受けるため自詠を送る。
・宣長は詠歌のために、『万葉集』『古今集』『古今和歌六帖』を薦める。
である。
宣長没後、俊信は師の書簡三三通をご神体として、邸内に玉鉾社と称する霊社を建て神として祀るのである。
その後は郷里に腰を落ち着けて、寛政一二年(一八〇〇)ころには開塾していたとされる千家国造館のすぐそばの私塾「梅廼(乃)舎(うめのや)」において門弟に教授するのである。山陰はもとより中四国地方や東海地方からも遊学する者が後を絶たず、「梅舎授業門人姓名録」には二二四名もの門弟がみられ、医師・僧侶・庄屋・商人・武士とさまざまだが、圧倒的に多いのは神官である。女性はいない。千家尊孫(七八代国造)・千家尊澄(七九代国造)・島重老(出雲大社上官。歌人)・富永芳久(国学者。歌人)・岡熊臣(津和野藩養老館教授)・岩政信比古(山口。国学者)らの俊秀が輩出する。
入門の際には、家業に精を出すこと、神の所為を知ることなどを誓約させているほか、「梅廼舎二十五禁」を設けている。禁止事項を摘記すると、
・講席で私語をすることや扇を使うこと。
・「当流の儀」をみだりに他門の人に話すこと。
・和歌は古体、近体ともに稽古するべきで、近体だけを学ぶこと。
・講説を聞いて不審な箇所はそのままにすること。
・門弟同士がお互いに敬い合わないこと。
であり、これは現在の学問にもそのまま通用するものである。
最後に、俊信の学問や歌に関わって述べてみよう。
出雲はそれまで儒教を加えた垂加神道が主流であり、その力は侮れないものがあった。しかし、松阪遊学からの帰国後、少しずつ宣長の古学が拡がりをみせており、宣長の俊信宛の書簡に「御帰国後追々、国造様始古学段々発り申候御様子」(寛政八年七月七日)、同じく「追々古学志之人々出来申候由、扨々致二大慶一候」(寛政九年三月一一日)とあり、古学が拡がりつつある様子が窺える。古学講習が奏効したのであろう。この後、出雲においても古学が着実に普及していく。また、歌についても、古学を学び、古人の心を知った上で詠むべきだと解いた宣長の教えが俊信に大きな影響を与えたことは確実であろう。前述したように出雲は伝統的かつ守旧的な二条家流が主流であったが、新興の鈴屋派(宣長の流派)が拡がる傾向にあったのではないか。
俊信は実作者として全国版の歌集に多く入集して高い評価が与えられており、また指導者としては、『出雲国名所歌集』二編の「森広正興はじめて歌よみけるとて見せける時」とする「咲そめしこと葉の花は末つひに八雲の道のおくも匂はむ」をみると、向学の若者に歌の奥義を究めて欲しいという優しいまなざしの俊信がいる。
幕末の出雲歌壇隆盛の基盤を築いた人物として高く評価されるべきであろう。