千家尊孫

 千家尊孫(せんげたかひこ。一七九六~一八七三)は七七代国造千家尊之の嫡男として生まれる。天保三年(一八三二)に父の跡を継いで七八代国造となり、子の尊澄に譲る明治二年(一八六九)までその任にあった。
 尊孫は国学を俊信に学び、最も熱心にその学統を受け継いだ。歌は出雲大社の上官千家長通(一七四七~一八一九)の教えを受けたとされているが、俊信の可能性が大いにある。長通は歌を小豆沢常悦に学ぶが、既述のとおり当時は二条家流の盛んなころであった。長通は「神道歌道茶道達人」であり、尊孫が編纂した『類題八雲集』に一八首も入集している。しかし、結果として、多分長通没後であろうが、叛旗をひるがえすことになる。「島重老翁の略伝」には前引の文に続いて次のようにみえる。「此時にあたり、翁(注、重老)ひとり古今新古今集の歌風をしたひ、頻に二条家の弊(注、形式主義的で、詠歌の用語の制限があること)を矯めむとつとめられけれども、長通、孝起(注、北島)氏の先輩ありて、これを攻撃すること甚しかりき。時に尊之国造君の令息国造千家尊孫宿禰の君いまだ若くておはしゝほど、ひそかに翁と心を合せ中つ世の風を尊とびたまひければ、辛うじて杵築の歌風を一替せられたりき。其間のいたづきたとへむにものなし」とあり、いわば歌風の世代交代がなされたのであり、その中心となったのが尊孫と俊信の門弟島重老(一七九二~一八七〇)であった。では、尊孫の歌風はどうであったのか。彼自身は「おろかなる我もよはひは季鷹に歌は景樹にまされとぞ祈る」と詠んでおり、歌人の賀茂季鷹(一七五四~一八四一)より長生きをして香川景樹(一七六八~一八四三)にも勝る歌を作りたいというのである。景樹の流派は桂園派と称され歌壇の一大勢力をなしていた。そうすると歌風は前述の鈴屋派とは違っており、俊信の教えを受け継がなかったことになるが、歌の改革をめざした師の精神は充分に理解していたであろう。
 尊孫の歌人としての評価はどうであろうか。
 まず和歌山の加納諸平(一八〇六~五七)が編纂した『類題鰒玉(ふくぎょく)集』では一四四首入集の第一一位(総歌人数は一七六〇名)、江戸の鈴木重胤(一八一二~六三)の『近世名家歌集』は江戸時代の多くの歌人を挙げるが、後期の歌人にかぎれば第二位であり、全国的にも高い評価を得ていたことが分かる。また尊孫には私家集(個人の歌集)の『類題真璞(またま)集』と『自点真璞集』が存し、重複もあるが前者は三七九二首、後者は二四一六首の大部な歌集である。前者は嘉永初め(一八四八年ころ)までの自詠を収めたもので刊行年時は安政二年(一八五五)五月、後者はあらかじめ人に選ばせた歌から自身が選んだもので刊行年時は記載されていないが幕末近くであろう。ここで特に問題にしたいのは、版権者のことである。両書は「弘所(ひろめどころ。売りさばきだけをする本屋)」として三都や名古屋等の本屋が列挙されている(「大社 和泉屋助右衛門」がみられる)が、本書の見返しに「出雲国杵築・・鶴山社中蔵」「出雲国杵築・・鶴山文庫」とある。これは杵築の「鶴山社中」(あるいは鶴山文庫)が版木の持ち主、つまり版権者であることを示している。版権者が杵築という一地方であるのでこれはいわゆる地方版であり、また営利目的ではないと思われるので私家版であるといってもよいだろう。ただし、彫刻・印刷・製本などの作業は地元では無理ではないかと思われ、三都の専門家にゆだねられたであろうが、詳細は分からない。ともかく財力も含めてこれだけの力が大社にあったのである。
 尊孫は歌題ごとに歌を分類したいわゆる類題和歌集の『類題八雲集』をも編纂している。刊行年時は天保一三年(一八四二)である。本書は出雲国人が詠んだ歌を収めたもので、歌人は三四四名、一三二〇首から成り、歌人の内訳は、出雲大社の神官・出雲の神社関係者・松江藩の藩士・豪商豪農と多岐にわたっており、出雲の歌人層の厚さを窺い知ることができる。「書肆弘所」として前掲とほぼ同じ本屋がみえ、さらに「出雲国杵築・・鶴山社中蔵板」と版権者が記されている。
 尊孫はまた歌論書『比那能歌語(ひなのうたがたり)』を著している。これは鶴山社中での講義録が基になっており、文法の誤り、誤用や誤写の多い現状を憂いて執筆したもので、「上代の歌と近世の歌との論」「書写の誤の論」「せしとししとの論」「古歌を解に心得あるべき論」などから成る作歌の手引書である。天保九年(一八三八)に「鶴山社中」から刊行されている。
 ところで「鶴山社中」とは何なのであろうか。「社中」とはそもそも地域を中心とした同門の集りをいい、これは千家国造館の裏山にちなむ命名で、歌人結社のことである。これの主宰者は尊孫で、天保年間(一八三〇~四四)の初めころ結ばれたと思しく、明治時代(一八六八~)初めころまで活動したとされている。実はほぼ同時期であろう、北島国造館の裏山に因む「亀山社中」が結ばれていたと思われる。主宰者は国造の北島従孝(一七七四~一八三八)か北島全孝(一八〇三~八六)であろうか。つまり、大社という狭い地域に同時期に二つの和歌結社が存在していたことになる。安政五年(一八五八)には両社中が合同で歌会を催行しており(出雲市立大社図書館「両社中内会兼当和歌控」)、お互い歌に励んだであろう様が窺えて興味深いものがある。