富永芳久(とみながよしひさ。一八一三~八〇)は道久の嫡男として大社に生まれる。多計知・楯津と号する。出雲大社権禰宜。代々北島国造家に仕える社家の家柄である。学殖深く識見に富み、ことに国学や歌に長じていた。
「富永楯津履歴書」によれば、八歳くらいで歌を詠み始めるという早熟ぶりを発揮し、素読と絵を学ぶ。ある年の六月に千家俊信に入門するが、芳久十九歳の時に俊信は没しており、門弟であった期間はせいぜい見積もっても五年くらいであろう。二十二歳で本居内遠(一七九二~一八五五)に入門を果たす。内遠は宣長の養子大平(一七五六~一八三三)の養子になって和歌山に在住しており、そこが古学研究の中心になっていた。師俊信の薫陶をうけて同じように古学を志したのである。その後、何度も和歌山に滞在しており、国造の北島全孝が和歌山に行く芳久に「帰るべき折なわすれそ桜田にことばの花のともはありとも」と餞別の歌を詠むが、かの地に歌友がいたとしても大社に戻ることを忘れないようにと釘をさすくらいに特に歌に熱心だったのである。そのかいあって、三十歳で北島家より「紀州ニテ学問出精」につき賞状を賜り、三十七歳の折には内遠より「古学道教諭専に可致」の免許状を得る。晩年は松江藩より藩校修道館に学師として招聘されたが断わり、社家の師弟教導と古学の研究に没頭する日々を送る。
芳久の学問的業績としては『出雲国風土記』の研究がある。
師俊信の『訂正出雲風土記』の解読を主に、宣長『古事記伝』、岸崎時照『出雲風土記鈔』、内山真龍『出雲風土記解』などを参酌して上梓されたのが『出雲風土記仮字書(かなぶみ)』である。漢字仮名交じりの読み下し文で漢字にはすべて片仮名でルビを施しており、読みやすい体裁になっている。刊行は安政三年(一八五六)であろうか。これは地方版・私家版ではなく、大阪の「河内屋茂兵衛」からの刊行であり、多くの需要が見込まれたのであろう。
芳久の編纂した歌集を挙げよう。『出雲国風土記』に関わるものに『出雲国名所歌集』(初編、二編)があり、ともに全国の本屋からの刊行である。刊行は「初編」は嘉永四年(一八五一)、「二編」は安政三年である。『出雲国風土記』などにみえる地名を詠み込んでおり、他書から拾集したもの、新たに作られたものなどから成る。「初編」は七五箇所(歌数は一五二首)、「二編」は一二一箇所(歌数は一九四首)となっている。歌人は地元が圧倒的に多いが、「二編」は多くの地方にわたっており、鈴屋派のネットワークを活かしたものであろう。
芳久はまた出雲歌人だけの歌集を編纂している。安政三年に『丙辰出雲国三十六歌仙』を刊行する。私家版であろうか。文字どおり三六名の歌を一首ずつ収めたもので、序は自序と和歌山の西田惟恒、跋は八雲琴の創始者中山琴主である。安政四年には『丁巳出雲国五十歌撰』を大阪の本屋から刊行する。五〇名の歌を一首ずつ収めたもので、序は自序と和歌山の熊代繁里、跋は七代目手錢白三郎有鞆の妻さの(狭野)子(一八一三~六二)である。安政五年には『戊午出雲国五十歌撰』を大阪の本屋から刊行する。同じく五〇名の歌を一首ずつ収めたもので、序は自序、跋は江戸の鈴木重胤である。このように精力的に毎年歌集を刊行しており、これら三集で実人数は一二六名に及ぶ。
芳久は全国版の歌集にも多く入集しており、歌集八冊が残されている。また前述の亀山社中のリーダー格であったと思われる。
最後に、手錢さの子との関わりを述べていこう。
前述したように、さの子は『丁巳出雲国五十歌撰』の跋を書いており、「(芳久が)としごとに国内のうたどもをあつめてえり出給ふに、こたみ此ふみのしりへにひとことをとのたまふもいなみがたく、かつはおなじこゝろのうれしさにたへず、つゝましさをもわすれはてゝなん」と恐縮しながらも光栄であると記している。手錢家に書簡書きとめが所蔵されているが、さの子の書簡をみると芳久との濃密な親交が窺われる。芳久がさの子に『出雲国風土記』を知らない人が多いと嘆いたり、『源氏物語』の注釈である『湖月抄』を読むさの子に『源氏物語』は歌を作るのに有益になるからよく読むようにと激励し、さの子が借りた契沖の『和字正濫抄』を返却してきた(芳久はこれ以外にも都の本屋から橘守部『心の種』、近藤芳樹『寄居歌談』を入手していたことが分かる。かなりの蔵書家であった)ので松江から届いた短冊を貸与するなどという交渉があった。向学心に富み、同い年のさの子をよほど気に入っていたようである。