千家尊澄(せんげたかずみ。一八一〇~七八)は尊孫の嫡男として生まれる。明治二年(一八六九)に父の跡を継いで七九代国造となり、子の尊福(たかとみ)に譲る明治五年一一月までその任にあった。松壷(まつつぼ)・千歳舎(ちとせのや)と号する。
尊澄は幼少より学問を好み、俊信の門に入り、俊信没後はその高弟岩政信比古に就き、また芳久とともに本居内遠に師事する。遠方の信比古や内遠には書簡でもって教えを乞うている。
歌の業績を紹介しよう。
全国版の歌集に実に多く入集しており、著名な歌人であったことが分かる。当然のことながら、出雲の歌集にも多く採用され、父尊孫の編纂した『類題八雲集』に二四首入り、芳久の『出雲国名所歌集』は尊澄の独壇場といった感がある。これは、ほぼ同年齢の芳久との関係にも拠るのであろう。「松壷歌集」なる私家集があったかとされているが、詳しくは分からない。また尊澄は『はなのしづ枝』という出雲歌人だけの歌集を編纂したであろう(編者が明記されていないのであるが)。これは大社に在世する五〇名の歌を一首ずつ収めたもの、安政四年(一八五七)の編纂か。序は「すみかげのおきな」(不明)、跋は尾張藩士の市岡和雄で名古屋の本屋から刊行される。本書は芳久の『丙辰出雲国三十六歌仙』を批判して刊行の翌年に編纂したという説があるが、芳久との関係からみてどうだろうか。
『歌神考』という歌学書も著している。これは文政一三年(一八三〇)、二十一歳の時に書かれたが、上梓されたのは遅く文久二年(一八六二)九月ころである。「松壷御蔵板」とあり、地方版・私家版かと思われるが、「発行書肆」として三都と名古屋の本屋が名を列ねている。序で本居豊頴は「すみのえ玉つしまの二はしらの神に高角山の大人(注、人麿)をくはへて歌の神にたゝへまうす事、いつのほどよりいひいでけむ」と述べ、従来の住吉・玉津島・人麿の和歌三神説に疑問を抱いた尊澄がこれを正すべく論じたのが本書であるという。尊澄はどう考えるのであろうか。「みそぢ一文字の歌は須佐之男命にはじまり・・長歌は大国主大神の高志国の沼河比売の御もとにいでましてよませ給へる、八千矛の神の命(注、大国主大神のこと)は八島国云云といふ大御歌にはじまれば・・この二大神をなむ此道の祖神とはあふぎ奉るべかりける」とあるように素盞嗚尊と大国主命を歌の祖神とするのである。素盞嗚尊が詠んだ歌はれいの「八雲たつ・・」、大国主命の歌は『古事記』上の「八千矛の神の命は八島国・・」ではじまる三九句からなる長歌である。尊澄としては、和歌発祥の地は出雲であるから歌神は素盞嗚尊であるし、出雲大社の祭神大国主命でなければならなかったのである。
文章にも秀でており、和文集『松壷文集』がある。全三巻(版本三冊)が刊行されており、一巻は文久三年(一八六三)の跋、二・三巻は慶応三年(一八六七)の跋がみられ、「松壷御蔵板」とある。「このふみは、我松壷君の青柳のいと若くおはしましゝ比より、折にふれ時につけて書きつめ給ひたる」文を「松壷の御館にさぶらひてえり出たるになむ」(西邨公群作)とあるように、永年書き溜めた和文から公群らが選んだのであろう。内容は本居大平著『餌袋日記』の序、中山琴主著『八雲琴譜』の序、「岩政信比古碑詞」など多岐にわたり、そしてまったくの創作もみられる。歌に関する記事も多くあり、たとえば巻一「子規(ほととぎす)の詞」に「月いみじうをかしきころ、こよひはかならずとおもふ折しも、ひとこゑほのめかして過ゆきしは、あかずくちをしうなむ。かの実定卿のただ有明のとよまれけるもかゝるさまにやありけむかし」とある。時鳥が予期したとおりに鳴いたので、藤原実定の「時鳥鳴きつるかたをながむればただ有明の月ぞ残れる」(百人一首)を思い起こしたのである。
出雲の歌壇に関わる逸話を取り挙げよう。巻二「秋の暮に人の許にてといふことを」に「みやびこのめるなにがしがもとにて、秋のなごりをしむ歌よまんとて、かれこれあひしれる人々ものしけり。いづれもをかしうもあはれにもよみ出たれど、こゝにしるさんはとかきもらしつ。されどありしことゞもはかつがついはんとす。たゞに歌のみにて秋のわかれをゝしまんはかひあらじとて、何がしは竹取物語、くれがしは大和ものがたりをときてよと、おのがじしくさぐさの物語ふみをとうでて、ものゝあはれをいひしらひけるはみやびかなるまとゐなりきかし」とある。風流人士に人々が集って秋を惜しむ歌を詠むが心残りであるとして、さらに各自が『竹取物語』『大和物語』などの話をしたという。「まとゐ」は円居で車座のことであり、多くの者が一箇所に集まり会すること、会合の意味もある。どれだけの人が集ったか不明ながら、鶴山社中あるいは亀山社中の同志で歌会が催行されたと思われる。また、二巻「寄雨恋のこゝろを」に「けふの歌のまとゐは寄雨恋といふ題なるを・・」、三巻「草を」に「この頃何がしが我友のもとに来て歌ものがたりのかうぜちのひまには歌のまとゐをなんものしける・・」と「歌のまとゐ」がみられる。実はこれらの歌会のことは他の資料によっても窺い知ることができる。手錢家に「ちとせの舎(注、尊澄)御せうそこ」という書簡書きとめが所蔵されているが、「人のもとへ紫文消息をかりに遣しける時」とある書簡に「きのふはたいめたまはりて、おかしき御ものがたりうけ給はりしはいみじうなん。さてはとしのはじめの歌まとゐものしはてたれば、少しはこゝろのどまるやうにはべれば・・」、また「文ことばのまとゐをものせんとておなじ人のもとに遣しける」の書簡に「・・きのふは歌のまとゐのはじめにて侍りしかば、おもしろき御ことのはどもをうけたまはりて、けふも猶くりかえしずしはべる・・」とある。これらの書簡の「としのはじめの歌まとゐ」「歌のまとゐのはじめ」とみえる歌会はともに歌会始であったといい、月次の歌会が行なわれていたと推測される物謂いである。大社という狭い地域で二社中が歌会を毎月開き、研鑽に励んでいたのである。