二 貞門期―元禄以前の出雲俳人

「はじめに」で簡単に触れたが、『出雲俳句史』にはつぎのようにある。
  元禄以前には松江に宗岷、杵築に岡垣正次及び願楽寺住職円意の名を見ることが出来る。彼等は何れも談林風の俳諧に遊んだが続いて元禄宝永年刊に活躍した日御碕の日置風水も亦初めは談林風の句を吐いてゐる。彼は実に元禄前後の出雲俳壇を代表すべき俳人で晩年の句風は蕉風に近い。なほ風水の外に高勝寺文峰の名が見える。
(『出雲俳句史』「第一編 明治以前 第一章 概説」)
 桑原氏は、とくに典拠を示さずに俳人たちの名前を挙げるが、正次、円意、文峰は、三千風編『日本行脚文集』(元禄三年奥)に載ることが確認できる。また、風水は顕著な活動を示した、いわば著名俳人である。
 とすれば、残る宗岷が問題だが、『出雲俳句史』には、重ねてつぎのようにある。
  談林俳諧の盛んであつた頃、松江には宗岷があつた。
    淋しさにたへたる秋の寝酒かな  宗岷
(『出雲俳句史』「第二章 元禄前後」)
 右の句の出典も記されていないが、検索したところ『誹林一字幽蘭集』中巻に載ることが確認できた。ところが、「宗岷」の句を、さらに他の俳書に探していく【(1)】と、その住所と姓は、以下のように記されていることが明らかになる。
「宗岷」…重頼編『四十番俳諧合』(寛文五年)
「京之住」「松江 宗岷」…重頼編『時勢粧』(寛文十二年)
「同(京) 宗岷」…顕成編『手繰舟』(寛文十二年)
「松江 宗岷」…良庵編『松花集』寛文十三年)
「京之住」「松江 宗岷」…維舟編『大井川集』(延宝二年)
「山城国京住」「松江 宗岷」…風虎編『桜川』(延宝二年)
「宗岷」…『俳諧三ツ物揃』(延宝三年)
「京之住」「松江 宗岷」…維舟編『武蔵野集』(延宝四年)
「京」「宗岷」…橋水編『つくしの海』(延宝六年)
「松江 宗岷」…沾徳編『誹林一字幽蘭集』(元禄五年)
 これらは(おそらく全て)松江住の宗岷ではなく、京都住で松江姓の宗岷だと考えられる。したがって、「宗岷」は出雲俳人ではない。
 なぜ、こうした誤認が生じたのか。桑原氏が戦後に出版した『出雲俳壇の人々』につぎの記述がある。
私が「出雲俳句史」を書いた時、貞享二年、伊勢の大淀三千風が諸国漫遊の途次、石見を経て出雲へ入った折、その記に「出雲国、願楽寺円意」の名があることを野田別天楼が「山陽山陰俳諧史」―改造社版、俳句講座第十巻―に書いたのを引用した。            (『出雲俳壇の人々』)
 つまり、桑原氏は『俳句講座』に載る野田別天楼の「山陽山陰俳諧史」を参照していた。あらためて『俳句講座』を確認すると、はたして別天楼が宗珉を松江の俳人と誤っていたことが確認できるのである。
 そこで、元禄以前の出雲俳人を検索したところ、つぎの結果が得られた。
正保四年(一六四七) 重頼編『毛吹草追加』…「出雲之住 正盛」入集。
万治三年(一六六〇) 重頼編『懐子』…「出雲松江 長知」入集。
寛文二年(一六二二) 如才編『伊勢正直集』…「出雲国松江住 具足屋如才」、「出雲国同処(松江)中井重正」、「出雲国松江住 長谷川友慶」、「同(松江住)重村就武」、「同 豪祚」、「同 可之」、「同 長治」、「同 生田経永」、「同 田代寿伯」、「同処 飯沼長知」、「同処 木屋友一」、「同処 斎藤高周」、「同処 村松教時」入集。
寛文四年(一六六四) 重頼編『佐夜中山集』…「出雲之住重村氏 就武」入集。
寛文四年(一六六四) 梅盛編『落穂集』…「出雲」として、「黒沢氏 弘忠」、「中井氏 重良」、「松浦氏 重武」、「重村氏 就武」、「山井氏 席塞」、「斎藤氏 宗俊」、「中井氏 重正」、「斎藤氏 高周」、「山添氏 命哉」、「長谷川氏 友慶」、「熊谷氏 半閑」、「曲成」、「古川氏 如毛」、「加言」、「不弁」、「重季」、「松江 心花」、「重矩」、「汕学 不及」、「冬刻」、「政盛」、「福田氏 道折」、「清直」、「昌勝」、「将尾」、「時興」、「坂本氏 吉次」、「松江 不白」入集。
寛文七年(一六六七) 湖春編『続山井』…「出雲国岡田氏 持尾」入集。
寛文八年(一六六八) 梅盛編『細少石』…「出雲」として、「松江住 政盛」、「友慶」、「重村氏就武」、「田代氏寿伯」、「斎藤氏高周」、「古川氏如毛」、「冬刻」、「重矩」、「不白」、「是焉」、「後楽」、「古田 不并」入集。
寛文十二年(一六七二) 重頼編『時勢粧』…「出雲松江」として、「有沢速?」、「伊達不及」、「桑原 盗閑子」、「福田道折」、「古田不芥」、「松川末尚」、「随寛子 直玄」、「松浦重武」、「熊谷 半閑子」入集。
寛文年間 種寛編『誹諧作者名寄』(寛文年間刊)の「山陽道 八ヶ国」に「出雲 斎藤高周」が載る。
延宝二年(一六七四) 維舟編『大井川集』…「出雲松江」として、「大虚院 直玄」、「池田 勝成」入集。
延宝二年(一六七四) 風虎編『桜川』…「出雲松江住」として、「松浦重武」、「直玄」入集。
延宝二年(一六七四) 素閑編『伊勢躍音頭集』…「出雲国」として、「長谷川友慶」、「中井良重」、「中井重正」、「一隅軒竹翁」入集。
延宝三年(一六七五) 重安編『糸屑集』…「出雲 過改」入集。
延宝四年(一六七六) 維舟編『武蔵野集』…「出雲松江 大虚院直玄」入集。
延宝五年(一六七七) 立圃・友貞編『唐人躍』…「出雲国 就武」入集。
 以上に拠れば、近世出雲俳人の劈頭を飾る人物は、『毛吹草追加』に入集する「出雲之住」の「正盛」である【(2)】。同書句引には「出雲之住/正盛 二」と記載され、本文には次の二句を載せる。
薫来る梅花は春の日あひ哉   正盛(『毛吹草追加』上・春・梅)
見ると聞とちがふ木葉の時雨哉 正盛(『毛吹草追加』下・冬・木葉)
(新村出校閲、竹内若校訂『毛吹草』岩波文庫、昭和十八年十二月)
 なお、『毛吹草追加』の句引に拠れば、同書には「京之住」四九名、「摂州大坂之住」四二名、「武州江戸之住」二一名、「泉州堺之住」一二名が載る他は、いずれの地域からも数名、多くても四、五名の入集である。つまり、三都の俳人が圧倒的に多かったのである。出雲俳人の数が、他に比べて特段に少なかったわけではない。
 貞門期の出雲俳人のうち、注目すべきは、黒沢弘忠(慶長十七年~延宝六年)である。弘忠は、石斎と号した儒者で、寛永十八年三月に松平直政仕官して、世子綱隆の教育を任された。右に、梅盛編『落穂集』(寛文四年刊)に入集するその句をあげておく。
  先いはへ内證所のかゝみもち   雲州黒沢氏 弘忠
(『落穂集』巻第一「立春」)
  峯に先はなたかぶりの一木かな   雲州 弘忠(※濁点原本ママ)
(『落穂集』巻第二「花」)
  夏やせか十六七夜月のかほ     雲州 弘忠
(『落穂集』巻第三「夏月 付短夜」)
  雪ならぬしらかをふせく笠もかな  雲州 弘忠
(『落穂集』巻第六「雪」)
 以上、貞門期の出雲において、相当数の俳人が活動していたことを明らかにすることができた。なお、住所の記載があるものはいずれも「松江」である。他地域では、まだそれほど盛んでなかったと見ることができよう。