五 宝暦期―空阿と百蘿、手錢家

 大社俳壇に大きな転機が訪れたのは、百蘿(広瀬氏、百羅とも記し、茂竹庵と称した、享保十六年~享和三年)が去来系の俳諧を出雲に持ち帰ってからである。百蘿が京都で空阿(去来甥)のもとに通ったのは宝暦八年七月から約四ヶ月間、また出雲で百蘿が嵐白に与えた伝書『蕉門発句十五味』(手錢記念館蔵)の奥書には宝暦十年十月の年記がある。とすれば、宝暦九~十年頃が、大社俳壇にとっての転換点だったと考えて良い。
 百蘿は、出雲大社の社家(千家家の代官役)に生まれたが、その母は手錢家の二代目茂助長定の娘である。『出雲俳句史』は、以下のように記す。
俳諧は二十七八才の頃より志し当時有名だつた宋屋、嘯山、竿秋、移竹等を尋ね、彼等を友とし武然、蝶夢とも吟会した(中略)が結局宗とすべきは芭蕉の外に一人もないとてこれを師と仰いだ。(中略)百羅は幾多の著述をなしたが書店にひさがず何れも書庫に秘めて他見を許さず、句集に入集を乞はれても決してこれを肯じなかつた。又門人をとつて生計を營むが如きことはしなかつたけれども文通した者は四百餘人の多きに及び特に近しくした人だけでも六十餘人に達したといふ。(中略)百羅自身は門人を取らなかつたのであるが彼の門に出入した者は皆彼の門人と心得たのである。中でも其子の日々庵浦安、孫の蘭々舎茂竹、春日信風、田中安海、古川凡和、加藤梅年等は有名である。(『出雲俳句史』「第一編 明治以前 第三章 天明前後」)
 『出雲俳句史』には、百蘿が空阿と接触したことは記されていない。そのことを明らかにした資料が、大礒氏によって紹介された『岡崎日記』である。同書は、宝暦八年七月二日、百羅が吉田訥子という人物の案内で、洛東岡崎に隠棲する中田空阿(延宝五年~宝暦十年)を訪問し、以後、芭蕉・去来の俳諧に関する指導を受けた際の聞書である。
 大礒氏の研究により、空阿が去来の伝書を多数所持していたこと、百蘿がそれを譲り受けて、出雲に持ち帰ったこと等が明らかになった。空阿は、「去来之甥中田庄五郎」(『岡崎日記』)と伝えられるが、大礒氏は、実際は去来の庶子ではなかったか、と推測している。いずれにせよ、芭蕉・去来に連なる伝書が大社にもたらされたことは、以後の大社俳人たちのアイデンティティを形成する上でも重要な出来事となった。
 さて、その百蘿の伝書の特徴は、他門に対して一線を画する姿勢であり、美濃派批判である。たとえば、自説を展開した後に、「他門に対して論ずべからず」(『俳諧発句十五味』)とか、「大カタ美濃ノ支考ガ説ニ惑ハサレ(中略)他門ニ洩サヌ様ニシテ、随分大切ニ致ス事ゾ」(『極秘誹諧初重伝』)などという言葉が添えられる。
 これは、いっけん排他主義的だが、実際は他門との不必要な軋轢を回避するための方便だったろう。職業俳人でなかった百蘿にとって、ことさら自説を主張して周囲と諍いを起こす必要はなかった。とくに三刀屋の美濃派俳人たちは、季硯・冠李たちと親しくしていたのだから、もし百蘿の美濃派批判が安易に外へ漏れれば、面倒な紛争が起こるのは必至である。しかし、百蘿の周到さによって、揉め事はどうやら無事に回避されていたらしい。百蘿の追善集である『あきのせみ』(文化二年跋)には、「三刀屋連」の東明や喜朝など、美濃派俳人たちも追善句を寄せていることが確認できる。
 その後、百蘿の系譜は、子の日々庵浦安、孫の蘭々舎茂竹と引き継がれた。手錢家蔵書中には、蘭々舎茂竹が「落柿舎五世」と署名した芭蕉像が残っており、孫の茂竹の代にあっても、去来からの系譜が大切なものとして意識されていたことが判る。
 いっぽう、手錢家の系譜は、白澤園季硯(三代)と徳園人冠李(季硯弟)から、敬慶(四代)、衝冠斎有秀(五代)と続くが、この手錢家と広瀬家との関係がいかに親密であったかは、百蘿の追善集『あきのせみ』(文化二年跋)(図版2)に有秀が序文を寄せ、有秀の追善集『追善華罌粟』(文政四年跋)に浦安が跋文を寄せていることから想像できる。両家は、たんに血縁があったという以上に、共に大社俳壇の指導的立場を占めていたと見ることができる。

図版2 『あきのせみ』有秀による百蘿像

 なお、補足しておけば、大礒氏は、『岡崎日記』の調査を進める上で、出雲俳諧に関する質問を桑原氏にしたという【(4)】が、その折の回答では、「季硯は不明」とのことだったという。桑原氏、大礒氏の調査で明らかに出来なかった季硯について、本稿で明確に報告できることは、今回の調査の重要な成果であると言ってよいだろう。
 同時に、大礒氏は、同じく桑原氏からの回答として「百蘿の著述の存在については昭和三十七年十一月三日に大社町で「広瀬百蘿翁顕彰展」があり、招かれて拝見、貴重なものが漢学・国学・和歌・俳句等々諸家に保存されている」と報告している。その「広瀬百蘿翁顕彰展」の目録(ガリ版)も手錢家蔵書中にあり、百蘿関連資料のリストとして貴重である。ただし、残念乍ら、その後に散佚したものも多いようだ。今後の再発見が望まれる。