風水以後しばらく中絶して天明前後になると、松江に松平雪川があり、杵築に広瀬百羅、同浦安(中略)がある。而して此時代を代表する者は雪川であらう。(『出雲俳句史』「第一編 明治以前 第一章 概説」)
右において「此時代を代表する」と評価された雪川(治郷弟衍親、為楽庵、宝暦三年~享和三年)だけでなく、松江藩松平家歴代の当主たちも俳諧に遊んだ。まず、雪淀(六代藩主宗衍、享保十四年~天明二年)、ついで雪羽(宗衍息、七代藩主治郷、不昧、宝暦元年~文化十五年)、そして月潭(治郷息斉恒、露滴斎、宗潔、寛政三年~文政五年)である。
ふつう、大名は参勤交代で江戸に滞在することが多かったため、地元の俳諧ではなく、江戸座の俳諧に親しみ、俳諧を通じて大名同士で交際もした。『出雲俳壇の人々』につぎの指摘があるのは、雪川たちもその例外ではなかったことを示している。
雪川の俳句の師匠といふか、指導的存在といふか、とにかく雪川俳句に大きな影響を与へた人は、伊勢国神戸(かんべ)の城主本多清秋であった。清秋は俳号で、本名は本多忠永(ただなが)といひ、享保九年五月十七日生れ、文化十四年五月十七日卒で、(略)清秋と雪川の親しかった関係や、その句文を通して見る時、彼等の指導にあたったのは小栗旨原であると考えられる。
(『出雲俳壇の人々』「文化・文政前後 松平雪川」)
「彼等の指導にあたった」とされる小栗旨原(享保十年~安永七年)は、江戸座の超波門の俳人で、百万坊、伽羅庵と称した。その句集『風月集』(安永六年年刊)には、雪淀と清秋が共に序文を寄せているし、本文を見ても、たとえば、「雲州公の高門にのそむ時」、「雲州公の御供して」、「雲州公侍座」、「初て雲州公へまいりし時」、「雲州公御家督譲り給ひし時」、「雪淀公侍座即席」などという前書きのある句が収録されており、旨原と雪淀の関係が深かったことが確認できる。
さらに、旨原の門人で『風月集』の編者の一人であった星霜庵白頭は、「雲州松江藩主松平出羽守様御抱」(『星門系譜』【(5)】八戸俳諧倶楽部蔵)であったと伝えられるし、やや後の資料だが、伽羅庵を継承した麻中の編になる『春帖集』(文政三年刊)の巻頭には露滴斎(月潭)の句が載っている。つまり、雲州松平家は、江戸座の中でも旨原の一派と深い繋がりを持っていたことが判る。繰り返しになるが、これは大社の去来系でも三刀屋の美濃派でもない俳諧である。
ただし、手錢家蔵書中にも、松平家に関係する俳諧資料がある。雪淀の短冊(図版3)が存在するし、伽羅庵麻中の『春帖集』も所蔵されている。さらには、大坂の五彩堂矩が雪淀の句に加点した懐紙帖も伝来する。
しかし、これらの資料は、雪淀や月潭と大社の俳人たちとが親しく一座した結果伝来したものではなく、何かの折に藩主から頂戴したものと考えることが妥当だろう。
図版3 短冊(雪淀)