化政時代に於ては簸川郡布智村に椎の本花叔があり松江に奈良井元朝がある。而して彼等の句風は大体中央に於ける当時の俳風と大差ない。
(『出雲俳句史』「第一編 明治以前 第一章 概説」)
幕末時代には松江に山内曲川、裏辻耕文があり、杵築に広瀬浦安の子蘭々舎茂竹、春日信風、田中安海、古川凡和、加藤梅年等があり能義郡に母里藩主松平四山及び比田村に若槻楚青がある右の内杵築の俳人はいづれも百羅の流れを汲んだが総じて当時の俳句は後年正岡子規が月並と称して軽蔑したもので見るべきものが甚だ乏しい。而して此時代を代表する者は曲川である。
(『出雲俳句史』「第一編 明治以前 第一章 概説」)
右の評価は、句風を基準にしたものであるため、どうしても「大差ない」「見るべきものが甚だ乏しい」と厳しい言葉になってしまっている。というのは、正岡子規が「月並調」と批判して以降、化政期以降の俳諧には低い評価しか与えられていないからである。しかし、俳人たちの活動に注目すると、じつはなかなか面白い時代なのである。
すなわち、化政期以降は、それまで以上に俳諧が大衆化し、全国的に俳人のネットワークが構築される時代であった。俳人同士の文通が盛んになり、それにしたがって人名録が盛んに刊行され、俳諧一枚摺も多く制作されるようになった。
そうした俳壇の風潮と出雲俳人も無縁ではなかった。人名録流行の口火を切った長斎編『萬家人名録』(文化十年刊)には、浦安と有秀も入集している(図版4)(図版5)。
図版4 『萬家人名録』浦安
図版5 『萬家人名録』有秀
同書は、俳人の肖像画入り人名録だが、巻頭には千種有政と富小路貞直の二人の堂上公家が載り、以下、道彦や巣兆などの有名宗匠はもちろん、年齢や社会階層もさまざまな俳人が一集に収められている。凡例を読むと、掲載されることを希望する俳人は、自分の肖像画をはじめ、住所や氏名などの原稿を、自分から編者の許に手紙で寄せたことがわかる。とすれば、大社の俳壇の指導的立場にあった浦安と有秀も、時代の流行に敏感に反応して、自ら入集を申し込んだということなのである。
なお補足しておけば、この時期以降に制作された俳諧一枚摺が、手錢家蔵書には多数所蔵されている。その中には、出雲俳人が制作した俳諧一枚摺であっても、京都の蒼?や大坂の八千坊などの有名宗匠の句を載せたものがある。これは、もちろん文通で各地の俳人たちと交際していた結果なのである。百蘿追善集『あきのせみ』に蒼?の跋文が載るのも、同じ時代状況の反映である。