おわりに

 本稿では触れられなかったが、幕末・明治期になっても、出雲では、曲川をはじめとする多くの俳人たちが盛んに活動していた。そのことと本稿で検討した諸俳人の活動とを併せて考えれば、出雲はじつに多くの個性的な俳人を輩出していたことが理解できよう。つまり、出雲俳壇の地位は、全国的に見ても、「甚だ低くかつた」わけでは、けっしてない。
 しかし、もし低調に見えるとすれば、その原因は、彼らの多くが、あくまでも俳諧を「自分たちの楽しみ」としていたことにあるだろう。手錢家の人々はもちろん、元禄期の風水も宝暦期の百蘿も、自分の俳諧を世間に売り込む必要はなかったのである。とすれば、本稿第一章で触れた『出雲俳句史』の出雲俳諧に対する厳しい評価は見直されて良いのではないか。むしろ、出雲の俳諧は、もっと評価されて良いものと考えるものである。
 
(注)
1. 以下、元禄宝永期以前の俳人の入集状況については、今栄蔵『貞門談林俳人大観』(中央大学出版部、昭六十四年二月)、雲英末雄・佐藤勝明・伊藤善隆・金子俊之『元禄時代俳人大観 一~三』(八木書店、平成二十三年六月~二十四年三月)を参照した。また、本文中に注記した以外に、句の引用に当たっては、『落穂集』は天理図書館綿屋文庫蔵本を、『風水ちり』は柿衞文庫蔵本を、『すがむしろ』は『近世俳諧資料集成』第二巻(講談社、昭和五十一年六月)を、『七十子』は早稲田大学図書館中村利定文庫蔵本を、『梅日記』は早稲田大学戸山図書館蔵本を、『蕉門名録集』は松宇文庫蔵本(国文学研究資料館所蔵マイクロによる)と玉城司氏蔵本を、それぞれ参照させていただいた。
2. なお、「正盛」には同名異人が複数存在するため、出雲の「正盛」に絞って活動の履歴を追うことはむずかしい。
3. 『俳諧すがた見』は「岱青楼主」に授けたものだが、「岱青楼」が冠李の別号であることは田中則雄氏からご教示による。また、『萬日記』中の俳額記事の存在は、佐々木杏里氏のご教示による。
4. 「高見本『岡崎日記』『元禄式』の出現と去来門人空阿・空阿門人百羅」参照
5.『八戸の俳諧』(平成十五年三月、八戸市博物館)参照。
 
出雲俳諧関係事項略年譜(享保十六年以降)
※本文中で触れた資料や参考文献によって作成した。なお、手錢記念館は「記念館」、島根県立古代出雲歴史博物館は「博物館」と略記した。
享保十六年(1731) 広瀬百蘿、生まれる。
元文四年 (1739) 節山、『誹要弁』(記念館蔵)を杜千に、『俳諧すがた見』(記念館蔵)を冠李に、それぞれ与える。
元文五年 (1740) 手錢茂助長定(二代)没(五十二歳)。
元文六年 (1741) 『〔竹翁伝書〕』(記念館蔵)奥。
寛保三年 (1743) 沾耳坊編『七十子』に「雲州大社 冠李」一句入集。
延享二年 (1745) 沾耳坊編『梅日記』刊。杜千、冠李ら入集。
延享四年 (1747) 冠李、『俳諧有也無也関』(記念館蔵)を写す。
寛延二年 (1749) 雲裡坊、義仲寺に幻住庵を再建。蕉風復興の先駆。手錢喜右衛門長光(初代)没(八十八歳)。
宝暦二年 (1752) 雲裡坊編『蕉門名録集』刊。季硯、冠李ら入集。
宝暦八年 (1758) 百蘿、洛東岡崎の空阿を訪問。『岡崎日記』成。季硯らの句集『葡萄棚 巻之二』(記念館蔵)成。
宝暦十年 (1760) 百蘿、『蕉門発句十五味』(記念館蔵)を嵐白に与える。
安永二年 (1773) この年以後、季硯句集『松葉日記』(記念館蔵)成。
安永五年 (1776) 阿井・大馬木連中編『出雲筵』(記念館、博物館蔵)刊。潜魚庵主(魚坊)序、出雲俳人入集。なお、記念館本には冠李の蔵書印が捺される。
安永六年 (1777) 『蕉門誹諧大意ふもとの塵』(記念館蔵)奥。
安永七年 (1778) 六月十六日、百万坊旨原没(五十四歳)。
安永八年 (1779) 蝶夢、出雲に来る(「雲州紀行」)。
天明四年 (1784) 百蘿、尾張の松浦文泰より『誹諧狂菊抄』(記念館蔵)を贈られる。
寛政三年 (1791) 五月二日、季硯(三代)没(八十歳)。九月二日、星霜庵白頭没。
寛政四年 (1792) 『俳諧時津風』(雲陽三穂神社奉額句集、雲陽松江未暁庵富英撰、旨原序、記念館蔵)刊。冠李をはじめ、出雲・伯耆・但馬・石見の俳人が多く参加する。
寛政五年 (1793) 十一月二十四日、魚坊没。
寛政六年 (1794) この年以後、百蘿著『さりつ文集』(記念館蔵)成。
寛政七年 (1795) 『庵記念』(魚坊三回忌追善集)刊。
寛政八年 (1796) 九月二十五日、敬慶(四代)没(六十五歳)。十二月十五日、冠李(季硯弟)没(七十八歳)。
寛政九年 (1797) 十一月七日、路考没(六十四歳)。田中千海(梅之舎安海)、生まれる。帰空房松後編『俳諧結制集』(博物館蔵)刊。
享和二年 (1802) 花叔、帰郷する。
享和三年 (1803) 六月二十四日、雪川没(五十四歳)。七月二十四日、百蘿没(七十一歳)。
文化二年 (1805) 百蘿追善集『あきのせみ』(記念館蔵)刊。有秀序。
文化十年 (1813) 『萬家人名録』(記念館蔵)刊。浦安、有秀入集。
文化十三年(1816) 加藤梅年、生まれる。 古川凡和、生まれる。馬得、生まれる。
文化十四年(1817) 八月十日、松井しげ没(八十一歳)。山内曲川、生まれる。
文政元年 (1818) 四月二十四日、不昧没(六十八歳)。楚白坊没。素琴没。広瀬茂竹、生まれる。
文政三年 (1820) 伽羅庵麻中の『春帖集』(記念館蔵)刊。五月二十七日、有秀(五代、別号衝冠斎・雅硯)没(五十歳)。
文政四年 (1821) 『萬家人名録拾遺』刊。花叔入集。有秀追善集『追善華罌粟』(記念館蔵)刊。浦安跋。克己庵維中追善集『蓮のうてな』(昨非坊・喜朝編、記念館蔵)刊。
文政五年 (1822) 三月二十一日、月潭没(三十二歳)。『〔金屋子神社奉納俳諧〕』(博物館蔵)の催しあり。
文政七年 (1824) 四月十三日、花叔没(五十一歳)。九月十二日、昨非没。
文政九年 (1826) 花叔三回忌追善集『夢路の葉桜』(記念館蔵)刊。
天保三年 (1832) 奈良井元朝(龍尾、八雲庵)没(九十歳程度という)。
天保五年 (1834) 三月九日、桃花没(六十九歳)。
天保七年 (1836) 桜井直敬四十賀集『桜の杖』(博物館蔵)刊。
天保十一年(1840) 『雲立集』(博物館蔵)刊。梅室序、八千閑人序。
天保十二年(1841) 一釣八十賀集『手曳能万津』(記念館蔵)刊。
天保十三年(1842) 故竹園吾友没。
天保十四年(1843) 六月十四日、有芳(六代)没(五十五歳)。
弘化二年 (1845) 日々庵浦安没(八十二歳)。
弘化四年 (1847) 山内曲川、故郷を出る。
嘉永三年 (1850) 一釣没。
安政元年 (1854) 七月二十四日、四山没(六十余歳)。
安政四年 (1857) 安秀(八代目)の婚礼に際し、中臣典膳の肝煎で和歌寄書の双幅(記念館蔵)が贈られる。
安政五年 (1858) 山内曲川、帰郷。橡実庵一枝編『ひの川集』(手錢記念館蔵)刊。
万年元年 (1860) 茂竹、北島家から「北」字を賜り、「北広」と改姓。
文久二年 (1862) 八月十四日、手錢さの子(七代有鞆室)没(五十歳)。
慶応三年 (1867) 三月五日、手錢有鞆(七代)没(五十八歳)。五月二十一日、広瀬茂竹没(五十一歳)。
慶応四年 (1868) 馬得没。
明治十年 (1877) 古川凡和没。
明治十五年(1882) 『俳茶式』(博物館蔵)刊。
なお、「申の年」の『俳茶式』(博物館蔵)もある。
明治二十年 (1887) 加藤梅年没。田中千海(梅之舎安海)没。
明治二十一年 (1888) 二月二十三日、若槻楚青没(八十三歳)。
明治二十八年 (1895) 裏辻耕文没(七十二歳)。
明治三十六年 (1903) 五月十九日、山内曲川没(八十七歳)。
 
(付記)
 本稿をまとめるにあたり、手錢家の皆様には特段のご配慮を、手錢記念館学芸員の佐々木杏里様、島根県立古代出雲歴史博物館学芸員の岡宏三様には懇切な御教示を頂きました。なお、本研究は、平成二十三年度以前から実施されていた手錢家蔵書調査の成果を利用させて頂いたものです。
 本稿は、島根大学法文学部山陰研究センター山陰研究プロジェクト「山陰地域文学関係資料の公開に関するプロジェクト」(二〇一三~二〇一五年度、代表・野本瑠美)、国文学研究資料館基幹研究「近世における蔵書形成と文芸享受」(代表・大高洋司)、科学研究費補助金(基盤研究(C))「「人を結びつける文化」としての俳諧研究」(研究課題番号26370259)(代表・伊藤善隆)の研究成果の一部である。
 
 
 
プロフィール◆
いとう・よしたか 一九六九(昭和四十四)年四月二十九日、東京生まれ。
早稲田大学大学院文学研究科日本文学専攻博士課程退学。博士(文学)。早稲田大学文学部助手、国文学研究資料館研究情報部リサーチアシスタント等を経て現職。
専門は近世文学、とくに、芭蕉をはじめとする近世俳諧研究と、近世前期の漢文学研究。主著『古典俳文学大系CD - ROM版』(共編、集英社、〇〇四年) 『カラー版 芭蕉、蕪村、一茶の世界』(共著、美術出版社、二〇〇七年) 『芭蕉』( コレクション日本歌人選34)(笠間書院、二〇一一年) 『元禄時代俳人大観 第一〜三巻』(共著、八木書店、二〇一一〜一二年)