古楽山

 楽山焼は、松江藩二代藩主綱隆が毛利公に願ったのを受けて、延宝五年(一六七七)倉崎権兵衛(?~一六九四)が弟子加田半六らを同行して萩から出雲入りし、延宝七年(一六七九)に開窯したのが始まりと言われる、藩の御用窯である。
 楽山は二代藩主の別荘が建てられていた松江市東部の丘陵の名で、「御山」、「御立山」などとも呼ばれていた。
 楽山焼は、倉崎権兵衛から数えて十一代となる長岡空権氏、十二代空郷氏によって現在もこの地で続いているが、倉崎権兵衛が当初からこの地に開窯したのか、別の地に築窯していたが後に移ってきたのか、そうだとしたらそれはいつ頃のことなのかについては、確かな資料が未だ出ていないためはっきりしない。ただし、「楽山焼」と呼ばれるようになるのは不昧公時代も後期以降になってからで、それまでは「御山焼」「御立山焼」「権兵衛焼」「出雲焼」などと呼ばれていた。
 初代倉崎権兵衛の開窯から、楽山焼を再興した長岡住右衛門貞政までの期間に作られたと見られる作品は、趣のある優品も多く、古楽山と呼ばれて今も好まれている。
 しかし、古楽山といわれる作品についている箱書のほとんどは後世になって書かれたもので、権兵衛作といわれるものでも当人の作であるとはっきり断定できる作品は少ない。
 楽山熊野神社(松江市市成町)に伝来する一対の耳付花入には、
 
  熊野神社/天和三亥ノ九月吉日/倉崎権兵衛重由
 
の文字が渦巻き文、草花文などと共に白土で象嵌されており、権兵衛作と断定して問題ないであろう、数少ない作品の一つである。
 彫三島茶碗(図1)は、桑原羊次郎氏(一八六八~一九五六)が前述の耳付花入と比較し、『楽山熊野神社御宝物権兵衛在名の花瓶と同土同釉の正体』であるとして、倉崎権兵衛作とした作品である。

図1 彫三島茶碗(倉崎権兵衛 桑原羊次郎極め)

 高麗写茶碗(図2)は、楽山焼九代長岡空味が倉崎権兵衛作とした作品である。質感、寸法、佇まいなど、館蔵の古萩茶碗(図3)と通じるものがあるが、権兵衛が萩焼の陶工であったことを踏まえれば不思議ではない。

図2 高麗写茶碗(倉崎権兵衛 長岡空味極め)


図3 古萩茶碗

 楽山焼で、伊羅保など高麗写しの作品が多く作られるようになったのは、権兵衛が出雲の土に合った作行きを試行錯誤した結果であると言われる。
 そのような努力と工夫が可能であったのは、権兵衛らが藩主同士の約束に似合った、高い技倆と意識の持ち主であったからだけでなく、本物の高麗作品群に親しく接する経験を持っていたからではないだろうか。だからこそ古楽山には、高麗写しの優品が多いのではないだろうか。(図4)

図4 伊羅保片身替茶碗(古楽山)

 権兵衛の後は、弟子の加田半六(?~一七〇九)が二代を継ぎ(図5)、以後四代目まで半六が続くが、四代半六が罷免され、権兵衛~半六の系譜は途絶える。

図5 高麗写茶碗(二代・加田半六 岡田雪台箱書)

 これは三代、四代と続いて凡工であったことと、四代が不祥事をおこしたためと言われているが、古楽山として伝世する作品の多さと、半六作といわれる作品を見る限り、それほどの凡工であったのか、何とも判断し難い。
 初代、二代に較べると、良い作品に接する経験は少なかったであろうし、技倆が劣っていたこと、不祥事があったことは確かなのだろうが、断絶した理由についてはそれ以外にも、茶の湯を巡る当時の社会状況や、茶の湯どころではない藩の経済状況など、さまざまな要因があったのではないだろうか。
 半六罷免の後、藩窯としての楽山焼では、土屋善四郎芳方が焼き物御用を勤めた(一七五六~八〇)。その後しばらく空白期間があったが、一八〇一年、不昧公に抜擢された長岡住右衛門貞政が楽山焼五代となって、再興される。 
 土屋善四郎芳方が、どのような修行を経て藩の御用を務めるほどの技術を得たのかについては、いまひとつ明確な資料が見られない。(土屋善四郎芳方の祖先は、初代藩主松平直政と共に松本からやって来て、その後代々土器などを焼いていたと言われる。)
 ととや写茶碗(「出雲ととや 銘さゞ浪」 酒井忠以箱書)(図6)は、形も土色もしっとりと柔らかく小振りで穏やかな趣の茶碗だが、箱書をした酒井忠以(号・宗雅(一七五六~九〇))の生没年から考えて、ちょうど土屋善四郎芳方が、楽山で作陶に携わっていた時代の作と考えてよいだろう。

図6 ととや写茶碗 銘『さゞ浪』(出雲焼 酒井忠以箱書)