宍道湖のほとり、玉造温泉と松江の間に位置する布志名は、船木家を中心に多くの窯が集まって瓦や日用雑器などを焼いていた民間の窯業地帯だった。
安永九年(一七八〇)、藩の御用を務めていた土屋善四郎芳方が不昧公の命でこの地へ移り住んだのは、布志名の窯業レベルの底上げの為ではないか、というのが現在の通説になっている。
それを裏付ける具体的な文書などはないが、芳方が布志名へ移って以降、布志名における窯業全体のレベルが上がったことも、布志名の代名詞である黄釉や金流しなどさまざまな技法が民間の窯にも広まっていったことも、確かである。
土屋家は芳方以降、息子である二代善四郎政芳(雲善/出呉善)、三代善六、四代善六と、不昧公の下で、仁清や乾山といった京焼の写しや交趾や楽風の作品など、多様な作品を作り続けていった。
また、享和二年(一八〇一)に布志名で開窯した永原與蔵順睦も、文化十二年(一八一五)に不昧公に召し出され、布志名では、土屋家と永原家の二家が、藩の御用を務めるようになる。