不昧公の出雲焼

 不昧公の時代、長岡住右衛門貞政によって再興された楽山焼では、伊羅保、三島、御本といった高麗ものの写し、土屋家に続いて永原家も加わった布志名焼では、安南、交趾、京焼、瀬戸などの写しを中心に、優れた作品が数多く生み出された。
 このように各々はっきりとした特徴と方向性が生まれたのは、不昧公の見識と指導によるところが大であるのは間違いない。
 青磁中蕪形花入(二代土屋雲善 玉映箱)(図7)は、不昧公が所持した天竜寺青磁の花入『夕端山』(根津美術館蔵)を写したもので、本歌は「雲州蔵帳」で中興名物に置かれているが、善六はこの天竜寺青磁の肌色から質感までよく写している。

図7 夕端山写青磁中蕪形花入(二代善六 玉映箱書)

 仁清鷲ノ山写長茶入〈永原與造 銘『天晴』(有澤宗滴)〉(図8)の本歌は、表千家に伝わる京焼の名工・野々村仁清の作で、極めて薄く仕上げられた華奢で丈高な姿と二重に掛けられた釉の景色が見所の個性的な茶入だが、有沢宗適による銘『天晴』の通り、與蔵の写しは素晴らしい出来映えである。

図8 仁清鷲ノ山写長茶入〈永原與造 有澤宗滴箱書)

 このように優れた写し物を作るためには、オリジナルにじかに接することが不可欠であるが、一介の陶工が簡単に見られる筈はなく、不昧公という稀代の数寄大名があったからこそ実見出来、写しが許された作品は少なくないだろう。
 一方、写しから一歩踏み出し、不昧公の美意識を具体的に形にしたのではないかと思われる作品もある。
 撫肩小茶入(長岡住右衛門貞政)(図9)は、唐物茶入のように薄造りで軽い茶入で、どこまでも繊細な作りである。

図9 撫肩小茶入(長岡住右衛門貞政)

 交趾写柿香合(二代土屋雲善か?)(図10)は、素朴でざっくりとした作りと肌合いで、侘びていながらもどこか微笑ましい香合である。この香合には、二代雲善が不昧公から拝領した印の一つとみられる、瓢形草書の「雲善」印が押されている。

図10 交趾写柿香合(土屋雲善)

 これらの作品を見ると、不昧公の心の中に、それぞれの技倆や扱う土質を活かして作陶させるという現実的な理由だけではなく、自らの茶の湯の理念や理想を具現化する新たな茶陶を生み出したい、という強い願いがあったのではないか、たとえば前述の茶入では、唐物茶入の良さを残しながら、自身の好みの大きさや形を求めたのではないか、などと考えたくなる。
 不昧公は、最上の作品に接する機会と、厳しく細やかな指導と薫陶を与えながら、彼らを育て、磨いていったのだ。
 土屋家から長岡家へと養子に入り、楽山焼六代を継いだ空齋(三代善六の弟)は、不昧公の命で色絵の習得の為、長崎や佐賀へ遊学した(実際に出掛けたのは文政四年(一八二一)のことで、不昧公の没後であったらしい)。 
 色絵唐子文茶碗〈長岡空齋〉(図11)に描かれた九人の唐子達にはピンク色やぺったりとした白色の顔料が施されているが、これらは中国から入ってきた粉彩独特のものであり、空斎が長崎で色絵を学んだという履歴にあっている。

図11 色絵唐子文茶碗〈長岡空齋〉

 空斎によって楽山焼、布志名焼は技法的にもより緊密になり、空斎以降、楽山、布志名双方で、多くの色絵の作品が作られるようになる。(図12)

図12 仁清写色絵紫垣梅竹図茶碗(三代善六)

 十八世紀後半から十九世紀にかけて、全国各地の窯が京焼の陶工達を招聘して指導を仰ぐ様になるが、出雲焼に関してはそのような記録がなく、むしろ、藩主の江戸行きに随行する途中、京都に立ち寄ったり、空齋のように九州へ遊学したりして、必要な技術や技法を習得していたようである。
 教えに来られれば、全てがその指導者の色に染まっていくだろうが、こちらが出向いて学ぶのならば、自分たちにとって必要な技法、役立つ技術やコツだけを取り入れることも可能となる。
 その時にも、不昧公という後ろ盾は大きかった筈だ。
 不昧公の、茶の湯に対する確固たる価値観と貪欲な意思によって、全く異なった二つの窯はさまざまな挑戦や工夫を重ね、各々の技法や表現を磨いていくが、対外的には「不昧公の茶陶」というふんわりとした認識で包み込まれ、その結果、一色に染まらない多様なヴァリエーションを持っているのが「出雲焼」だというブランドイメージが、作り上げられたのではないだろうか。