不昧公によって育まれた個性と技術はその後も受け継がれたが、明治維新後の楽山と布志名は、少しずつ違った道を選んで進んでいく。
不昧公没後の布志名焼は、四代土屋善六、永原雲与、雲永などが茶陶の優品多く残すが、明治維新以降は輸出陶器など茶陶だけにこだわらない方向へ舵を切り、一時多いに繁栄した。しかし大正期には衰退しはじめ、永原家は廃窯し、現在茶陶を製作しているのは土屋家(雲善窯)のみとなっている。
楽山焼は、空齋、空入と続くが、藩の庇護のなくなった明治時代には辛い模索の時期を過ごすこととなった。
しかし、大正六年に催された不昧公百年忌の折りに公遺愛の茶陶六点の写しが記念品として頒布されることになり、作陶を担当した九代長岡空味はそれを契機に茶陶へと回帰した。その後は当代に至るまで、高麗写しを芯に置いた茶陶を主として作陶を続けている。