婚礼の様子

 婚礼は、平安時代から行われていた宴会の儀式から発展し室町時代に武士の饗応の作法として確立した本膳の決まりに従って進められていたようである。
 本膳は、式三献 雑煮 本膳 二の膳 三の膳 硯蓋という順番で行われるのが基本の礼式である。現在では結婚式や正月、冠婚葬祭に面影が残っている程度で、明治時代以降すっかり廃れた。このうち式三献は、一献・二献・三献と膳を三度変え、そのたびに大・中・小の杯を一杯ずつ繰り返す酒宴の礼法で、この式三献が略式化されて、現在の三三九度となった。また、式三献、雑煮と続く儀式はお正月のお屠蘇とお雑煮の元となっているとも言われる。
 手錢家の婚礼では代々、式三献として、初献で昆布、栗、あわび熨斗、ニ献で田作、香物、三献で数の子、巻するめ、梅干と吸物(魚薄造りと梅干し)が出され、初献、あるいはニ献に雑煮が添えられている。これらの品がいずれも土居(盃台のような、縁のない四方台)に置いた土器にそれぞれ盛られていたことも、記述から分かる。
 記載を較べてみるといずれの代の婚礼でも、式三献で鶴亀島台、髙砂尉姥が飾られることは決まっていたようだが、この髙砂尉姥が、人形なのか画(掛物)なのかははっきりしない。  
 一方、床の掛物や置物は時代によってまったく異なっており、それぞれ当主がその時最も「ありがたい」と思ったものを飾り、家の繁栄と幸いを願ったのではないかと想像される。
 式三献が終わると色直しとして、高盛り御膳、本膳などが供されて宴となった。
 本来、このような料理のほとんどは見るもの、或いはその場で食べず持ち帰るものだったようで、江戸時代に入ると次第に、実際に食べるための引き替え膳が工夫されたり、後半に素麺やうどんが出されるようになっていく。このことは、「萬日記」の記述からも確認できる。献立の中で何度も吸物があるのも、その場で食べられる料理だったからではないかと思われる。
 八代の婚礼献立にある、長鍋で出される鯛麺は鯛を姿焼きしたものを載せた煮麺で鍋ごと座に持ち出され、「福を分ける」という意味を込め、その場で取り分けられた。手錢家に残る長鍋は、楕円形の銅の鍋とそれを嵌め込む木製の外枠からなり、木製の鍋蓋には家紋が描かれている。
 このような婚礼の宴は数日に亘って続いているが、日によって料理の品数や献立の内容が異なっていることと客の名簿を考え合わせると、客の格式や身分によって日を分けていたと分かる。
 歴代の献立からは、使われた素材や調理の仕方など時代による変化が見えるのも興味深い。