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はじめに記したように、百蘿は去来・空阿の伝授を出雲に持ち帰った重要な俳人である。その人物や伝授について、詳しくは桑原視草氏『出雲俳句史』(私家版、昭和12年9月・だるま堂限定版、昭和53年4月)、同氏『出雲俳壇の人々』(だるま堂書店、昭和56年8月)と前掲大礒氏著書に譲るが、ここでは『あきのせみ』の記述に関わる百蘿の伝記的事項について、簡単に触れておきたい。
百蘿が京都に遊学して伝授を受けたのは宝暦八年七月から十月のことである。『あきのせみ』の「枕言葉」に「はじめ都に十とせばかりの春秋をおくり、夏草のしげきを分て千代の古道の跡をもとめ」と言い、同じく「蓑笠翁終焉之記」に「若冠の頃より和学に志し、官袴を辞して都にのぼり、千代の古道の跡をしたひ、東南西北に吟会し、古翁の風骨をも探りて月花に遊ぶ」とあるのは、空阿の名前こそ明らかに出さないものの、その京都遊学を言ったものであろう。
椎の本花叔は、その著『雲陽人物誌』(文政六年)に、つぎのように百蘿の伝を載せている。なお、花叔は『あきのせみ』に句を寄せてもいる。
○春信 氏は広瀬、通称土佐助、杵築之人也。神学ニ名高し。和哥誹諧を好む。始常悦の門人、後芝山持豊郷の門弟となる。号百羅。蓑笠翁、鳳尾斎、七俵斎、重隠子等數号あり。実名を、始春光又貞悦ともいひし。又蓮心長隠なとの号も有しと也。
著述 誹諧二十五條 同執中抄 千代の古道 和学精微抄 手尓於葉抄
其外撰書多し。享和二戌七月廿四日齢算七十ニテ卒す。
附録国造家より侍講たらしめんと有けれは、録を家弟に譲りて京都に遊ひ、年を経て古郷に帰り、市中に隠る。又富士を見んとてはる/\東に杖を曳いて
日のもとの名におふ山かあめつちのなかにひとつのふしの高根ハ
辞世
時来り何れか先に秋の蝉
(山崎真克氏『椎の本花叔編『雲陽人物誌』翻刻』(1)による)
引用中には、百蘿が「杵築之人」であること、また「録を家弟に譲りて京都に遊ひ、年を経て古郷に帰り、市中に隠」れたことが記されている。家族のことと、上京、閑居については、他の資料も簡単にだが参照しておきたい。
広瀬嘉内信睦の嫡男として出雲国簸川郡杵築町に生まれ幼少にして頴悟好学、京都に出でて神学及和漢の学を修め帰国して家職についたが後多病の為めに家督を弟に譲って市中字越峠に閑居した。
(『出雲俳句史』)
父は信睦 母者手銭茂助女 春信翁若冠より学事を好み弟亘人正昌に家を譲りて上京し 明経の御博士舟橋の御殿に入門して和漢の書籍を拝伝し 和歌を学び俳諧に達す 妻は在京の砌り約したる中野利兵ヱ女也 元来是は舟橋二位則賢郷の妾腹也 中野氏養育して後 近衛殿の政所に致仕ありしを舟橋殿の御奥豊真院の御方媒介ありて妻に娶り 帰国して市中に閑居して一男子を儲け 鳳尾斉百蘿と号して専ら風雅を好みて四方に名高し
(『出雲俳壇の人々』所引、「北広家の家系帳」)
家督を弟に譲った理由や時期については、文献により多少の違いがあるが、出雲に戻ってからの閑居については、どの文献も共通して伝える。『あきのせみ』所収の「蓑笠翁終焉之記」にも「翁は常に名利を好まず」「書店に鬻ぎ、好士をまねきて活計のたよりとすることをなさず」「諸国の風客問へども答へず」とその人となりを記している。
桑原氏『出雲俳句史』には、百蘿の俳諧について、「二十七八才の頃より志し」「当時天下に名高い俳士との交遊が深く又各流派の俳風を学んだらしく」「研讃につとめたが結局宗とすべきは芭蕉の外に一人もないとてこれを師と仰いだ」とある。百蘿の生年を享保十六年とすれば、二十七八才の頃とは、ちょうど空阿から伝授を受けた宝暦八年頃である。
京都で空阿の伝授を受けた結果、百蘿は、芭蕉四世、落柿舎三世を名乗るようになる。出雲に戻ってからの百蘿の隠逸的な生き方は、百蘿のもともとの気質によるとともに、去来・空阿の伝授を拠り所として、当時流行していた美濃派の俳人たちとは、一線を画した俳諧活動を行っていたことを示すものとも考えられよう。