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なお、百蘿の生没年については、これまでも疑問が呈されていた。追善集である『あきのせみ』を参照しても、残念ながらその疑問を解決するには至らない。すなわち、桑原氏は『出雲俳壇の人々』で、
大社町教育委員会編の「広瀬百蘿顕彰記念誌」に彼の生年を享保十六年とし歿年を享和三年とし、七十二歳歿としてゐる。又、「雲陽人物誌」は七十一歳卒としてをり、拙著「出雲俳句史」には七十一才と記した。これはその頃彼の生年がわからぬため、同時代の花叔の記を採った。然し、大社町教委編の「百蘿関係俳諧年譜」によると、彼は享保十六年に生誕し、享和三年に七十二才で歿したとしている。然し年表を繰ってみると七十三才歿になる。今、右の生年と享年の年が正しいとすれば、七十三才歿を正しいとせねばなるまい。これも後証にまたねばならない。
と指摘する。たしかに、桑原氏が同書で引用する『雲陽人物誌』には「享和三の七月廿四日齢算七十一にて卒ス」とある由。また、やはり同書に引用する北広家の家系帳にも「享和癸亥七月廿四日 七十一才卒す」とある由である。
しかし、前引の山崎氏翻刻の『雲陽人物誌』(底本は島根県立図書館蔵本)を参照すると「享和二戌七月廿四日齢算七十一ニテ卒す」とあって、享和三年とは一年の違いがある。
また、『あきのせみ』を参照すると、「枕言葉」に「古翁は元禄七年の〓化、師は享保十年の生れなれば、年暦四十四年を隔つ」とあるが、元禄七年から四十四年後は元文三年になる。享保十年は三十一年後であるから、この記述は俄に信用することができない。また、「蓑笠翁終焉之記」には「ことし七十一歳」とあるのだが、「ことし」とあるばかりで、享和二年のことか、三年のことかが明確でない。したがって、生没年については、『あきのせみ』を参照しても、いま一つ明確にはならないのである。