はじめに

PDFで読む 目録


 本稿では、広瀬百蘿(享保十八年?~享和三年)の俳文集『さりつ文集』を翻刻する。なお、この書名は、百蘿の別号である「蓑笠翁」に因んだものと考えられる。
 百蘿は出雲大社の社家(千家家の代官役)広瀬氏の生まれで、その母は手錢家の二代目当主である茂助長定の娘である。大礒義雄『岡崎日記と研究』(未刊国文資料刊行会、昭和五十年十月)で紹介されたとおり、百蘿は、宝暦八年七月から約四か月間、京都の岡崎にいた去来の甥(大礒氏は、庶子ではなかったかと推測している)の空阿という人物の許に四ヶ月通って教えを請い、伝書を授けられた。その後、帰国してからは、大社俳壇の指導者的役割を果たした。
 なお、昭和三十七年十一月三日から五日にかけて、大社町公民館で「広瀬百蘿顕彰展」(大社町教育委員会主催)が開催され、その際に『広瀬百蘿顕彰展記念誌』(謄写版)が刊行された。それに載る「広瀬百蘿略伝」に拠れば、百蘿は十九歳の時に上京し、神学、漢学、歌学などを学んだ。在京中には宋屋、竿秋、嘯山、移竹、蝶夢などと交わり、あるいは貞徳や貞室、鬼貫、言水等の系統の俳人たちとも遊び、さらには美濃派に学んだこともあったが、結局は芭蕉のみを宗とすべきであると覚知し、以後その不易の体を専らに学んだという。
 以上の経歴を見ると、百蘿は中興期俳人らしい特色を備えた人物である。すなわち、中興期俳人たちの特色としては、芭蕉復帰を唱えたこと、一派一系の俳系に縛られず各自が自由に活動して個性を伸張させたこと、行脚によって交遊を広げたこと、優れた俳論を展開させたこと、同時代に流行した文人趣味の影響で古典や漢詩などの教養を重んじたこと、等々が指摘されている。百蘿は、京都に出て神学、漢学、歌学などの学問を修め、諸派の俳人たちと交流し、その結果、俳諧に独自の価値観を持ち、芭蕉を尊重するに至った。そして、『極秘誹諧初重伝』(手錢記念館に巻一のみ現存)や『蕉門誹諧大意 ふもとの塵』(安永六年二月奥、手錢記念館蔵)などの俳論を残している。こうした点に注目すれば、百蘿は典型的な中興期俳人の一人として位置づけられるべき存在であると言えるだろう。
 なお、「略伝」に拠れば、百蘿には、神書、歌書、誹書、雑書などの著述が数百巻あったが、それを書店に鬻いで活計の便りとすることはなく、書蔵に秘め置いて他見を許さなかったという。そのためか、百蘿の著作はほとんど現存が確認できていない。すなわち、手錢家に残されていた本書は、今後の研究の進展のためにも大変貴重な存在なのである。