三 季硯、冠李の俳諧活動と出雲俳壇

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 ところで、出雲俳壇といえば、大礒義雄氏が、『岡崎日記と研究』(未刊国文資料刊行会、昭和50年10月)、「高見本『岡崎日記』『元禄式』の出現と去来門人空阿・空阿門人百羅」(『連歌俳諧研究』87、平成6年7月)で報告されたとおり、去来の甥である空阿(水鶏坊と号した。大礒氏は去来の庶子かと推測されている)から伝授を受けた広瀬百蘿(百羅とも記し、茂竹庵と称した。享保十六年~享和三年)の存在が注目される。
 百蘿は出雲大社の社家(千家家の代官役)に生まれたが、その母は手錢家の二代目茂助長定の娘であった。季硯、冠李は、この百蘿と親交が深く、『松葉日記』中にも、「茂竹庵のあるじは、予か生縁のしたしみあり」と記し、「兼ては風月のおもひあつく、故翁の跡をしたひ、落柿の源をさぐり、あやうき梢にのぼりて、正風直旨の熟柿を得たり」と、百蘿が京都で去来の伝を受けたことを指す記述がある。さらに、「故翁落柿の俳恩は更にして、今猶水鶏坊を慕ふも、百羅道人のゆへあれはなり」と、百蘿に去来の伝を伝えた空阿を慕う気持ちも記されている。
 また、大礒本『岡崎日記』を書写したのは儀満持矩(2)だが、その儀満家と手錢家にも縁戚関係があったという。とすれば、百蘿が京都から出雲に持ち帰った伝書類は、季硯や冠李ら大社の俳人たちの間でも伝授や書写が行われたと想像される。この点からも、記念館に伝わった俳諧資料と、季硯、冠李の俳諧活動は注目に値する。
 ところで、出雲俳壇の研究として著名な、桑原視草氏の『出雲俳句史』(私家版、昭和12年9月・だるま堂限定版、昭和53年4月)、『出雲俳壇の人々』(だるま堂書店、昭和56年8月)の両書には、季硯、冠李に関する記述は見当たらない。大礒氏も「高見本『岡崎日記』『元禄式』の出現と去来門人空阿・空阿門人百羅」において、桑原氏に照会したが「季硯は不明」であったと記している。
 いっぽう、大礒氏は『岡崎日記と研究』で、季硯の句が雲裡坊(元禄六年~宝暦十一年)編『蕉門名録集』(宝暦二年刊)に記載されていることを指摘されている。そこで、管見の限りではあるが、当時の俳書を閲した結果、美濃派の洗耳(沾耳)坊(生没年未詳)の俳書に、出雲俳人たちの入集が確認できた。すなわち、沾耳坊編『七十子(しちじゆうね)』(寛保三年刊、芭蕉五十回忌追善集)には冠李の句が載り、同じく沾耳坊編『梅日記』(延享二年刊)には「出雲 大社」の杜千・柳波・五溪・冠李・関山による表六句が収録されている。
 また、大社から20km程度南東に位置する三刀屋では、当時、美濃派の俳人が活動していた。『蕉門名録集』には、三刀屋の魯什、石泉、酔月、寸松らも、大社の俳人たちと共に入集している。記念館に残る資料に拠れば、季硯や冠李たちが彼らと交流を持っていたことも確認できる。つまり、季硯や冠李たちは、百蘿を通じて大社にもたらされた去来の伝を継承しつつ、同じく出雲三刀屋の俳人とも共存していた。このことが大社俳壇の特徴であると指摘できよう。